2008年度以前の同窓会ニュース
このページは、2010年1月1日に移行した旧同窓会ホームページに掲載されていた各種記事をまとめたものです。尚、記事において表明された意見は各記事における筆者のご見解であり、法政大学第二高等学校同窓会ホームページ管理者は、記事の主旨を尊重して、誤記を除きそのまま掲載しております。
旧同窓会ホームページは、2011年3月31日付で閉鎖いたしました。長い間のご利用ありがとうございました。
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2006.08.12
8月12日(土)13時から、武蔵小杉のホテル・ジ・エルシーに於いて法政二高同窓会と法政二高育友会役員懇談会を開催しました。
同窓会からは、岡田会長、品田副会長、早速理事長、池上副理事長が、二高育友会からは石渡会長、山中副会長、寺林副会長、坂口監事がそれぞれ出席しました。
同窓会、育友会ともに今年度の新しい役員体制では初めての懇談会でしたので、岡田同窓会会長の挨拶の後、各自の自己紹介を経て懇談に入りました。
岡田同窓会会長からは二高を取り巻く法政大学全体の情勢、二高の学校運営に対する同窓会と松本校長や榎本副校長との意見交換の報告などが、石渡育友会会長からは現在の二高の実態、育友会の動きなどが報告され、それぞれを話題とした活発な意見交換が行われました。
今回の懇談会は、育友会、同窓会が今後とも車の両輪となって二高を支援していくことを確認し、盛会裏に終了しました。
2006.07.27
去る5月25日急性呼吸器不全で急逝された故田島良成同窓会相談役を偲ぶ会が、7月27日横浜中華街の酔仙酒家でしめやかに執り行われました。
田島翁は、入院中も一切の見舞いを断り、葬儀も遺言により近親者の密葬で済ますなど、最後まで翁ならではの美学を押し通しましたが、「せめてお別れのご挨拶ぐらい申し上げたい」と言う、関係者の強い声に押され岡田安弘同窓会長が呼びかけ人代表となり当日の「偲ぶ会」実現に漕ぎつけたものです。
当日は、旧制法政二中出身のOBを中心に、多数の関係者が集まり、また学校側からは永岡事務長が、更には法政一高と女子高の同窓会からも役員が参列するなど、翁を偲ぶ参列者は会場から溢れるほどでした。
式は小宮陽一同窓会副会長の司会で始まり、黙祷の後、岡田安弘同窓会長の挨拶、法政大学校友連合会岩部金吾会長、法政一高同窓会大石勝康会長の弔電披露、田島相談役と同級生で一期生小泉一雄氏の挨拶、参列者全員による献花、二期生の大屋文彦氏の献杯と続き、懇親会に移りました。
懇親会場内からは、田島翁の偉業を称える声が多くあがり、二高同窓会にとっては、将に「巨星堕つ」の感を否めない一日ともなりました。
懇親会の最後に、ご遺族の奥様よりご挨拶いただき「偲ぶ会」は滞りなく終了いたしました。
2006.06.30
本年6月30日に川原間一先生(昭和27年4月~昭和36年4月まで数学を担当)が84歳でご逝去されました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
先生は、旧制一高・東大をご卒業後法政二高に奉職されました。
一高時代は、寄宿寮総代会議長を務め、大演説家として勇名を轟かせ阿部能成先生(当時一高校長)の知遇を得ました。
法政二高では常に生徒の目線で指導され、「間ちゃぁん先生」の愛称で生徒の誰からも畏敬され、また愛された名物教師であり、私たちの青春の偉大なる教師でありました。
退職後は、高崎で学習塾を経営され地域の教育に貢献される傍ら、文芸誌「ももんが」の同人として50年の永きに亘り携わりご活躍されました。
合 掌
同窓会会長12期 岡田安弘
なお、御令室の妙子様からはクラス会や何かの集まりには先生に代わってご出かけいただけることとのことでご連絡くださいとのことでした。また、連絡先につきましては、メールにて事務局までお問い合わせください。
2006.05.18
二高同窓会 惜しくも4位
去る2006年5月18日(木)にあいにくの雨模様の下、開催された第1回同窓会親睦ゴルフ大会の模様について母校同窓会小宮副会長からレポートがあったので紹介する。
5月18日(木)磯子カントリークラブで、第1回同窓会親睦ゴルフ大会が開催されました。
主催は法政大学校友連合会、共催は各学部同窓会と付属高校同窓会によるもので、まさにオール法政OB会の組織を挙げての親睦大会でもありました。
大会当日は、低気圧の影響であいにくの雨模様となりましたが、7同窓会が2チームづつエントリー、62名が日ごろの腕前を競い合いました。
競技方法は新ぺリア方式で、団体戦は各同窓会上位7名の成績で争うもので、わがニ高同窓会は、惜しくも4位の成績に終わりましたが、個人成績では昭和34年卒の柔道部OB会の永田三男氏と矢島幹也氏がそれぞれ3位と5位に入賞するなど、ニ高同窓会の気を大いに吐いてくれました。
今回の大会は、校友連合会の事業委員会の企画によるものでしたがプレイ終了後の懇親会の前に、母校OBである湯谷昇羊週刊ダイヤモンド編集長による時局講演があり、参加者からは好評を博しました。
懇親会の後は恒例の校歌斉唱、今回は現役の応援団長のリードで大いに盛り上がり、参加者は校友連合会岩部金吾会長の「法政大学の校格をあげる為にも校友が一同に会し、胸襟を開きあうことに意義を感ずる」との挨拶を胸に、家路につきました。
2006.03.17
2006年3月17日 酔仙にて開催
19期会(昭和37年卒業)の武田 洋先輩から投稿をいただきました。
3月に、我が吹奏楽部の設立総会に出たばかり。最近は二高が多い。3月31日は飯田橋のボアソナードタワーで、会社の法政OB会がある。25階で飲んで外堀の花見も素敵だろうな。
今日は二高の19期の会場に行く。中華街の酔仙楼(堀井君21期)、我がOBのお店です。
何度か同期会に行ったが、珍しく今回は柴田(巨人OB、名球会)がいた。年に似合わずピンクのセーター。昔と変わらない。少し太ったか、ケツはあいかわらず大きい。勿論甲子園に、何度もいった選手。在学中も背は高く、ムキムキで、内股で、目立つ存在だった。
マネージャーの堀場、五明(法大元監督)の野球部、バレー部OBの北出(拓大教授)、放送部、空手部、森OB会長とコメントあり。
堀井くんのご子息から会に特別メニューのサービス、うまい。食が進む。
霊験あらたかな、応援団OBの松橋宮司さんのお話。みんなの話はおもしろい。競艇情報化センター常務理事の船越君。
昔の顔を思い出したのか、話が楽しそうだ。新鮮でとても還暦を過ぎ63歳を迎える人に思えない。
私も新しい人生の伴侶を得た話。妻に病で先立たれ、かみさんを大事にしなさい。1人になると話し相手がなく、寂しくなること(大八木君から何時も言われる)、皆にもありうるぞ。
もうぼちぼち退役の年にもかかわらず、我が仕事で、最近がんばった日本建設業経営協会で優秀賞を得た話をする。まだまだの声、パソコンに向かって、追われている身なのに。
競艇場の船越に、柴田が寄ってきて言った。お前の給料は俺が払っている。そのくらい遊んでいるぞ。感謝状くらい出してもいいだろうと。
柴田さん、朝からRFのコマーシャルにでて、頑張って忙しいのに。
働いているばかりでなかった。コマーシャルも撮影してしまえば終わりなんだ。
我が19期会は、硬軟、秀劣多数の人材が揃っており、皆様のお声掛かりを待っています。
堀井君ありがとう、おいしかった。
いつも会の運営役の天明君、ありがとう、楽しいひと時をすごせました。
来年が楽しみだ。
2006.02.25
▲ 応援団による演舞
2006年2月25日12時から、ホテルニューオータニ「芙蓉の間」において、 法政大学校友連合会主催のオール法政新春を祝う会が開催された。
当日は、平林総長はじめとして多くの大学関係者、校友700余名が出席した。
▲ 次期全国大会実行委員会を主管する沖縄支部照屋一郎支部長をはじめとする幹部の皆様方へ挨拶する岡田法政二高同窓会会長
応援団の演舞、本年の法政大学全国卒業生の集いが開催される沖縄から沖縄舞踊のアトラクシヨンが披露された。
なお、この席を借りて2004年法政大学全国卒業生の集い神奈川大会の記念式典で、校友連合会に返納した大会旗をあらためて、2004年神奈川大会の実行委員長であった岡田安弘(法政二高同窓会会長)から2006年沖縄大会の実行委員長である照屋氏に引き継いだ。
▲ 校友連合旗を岩部校友連合会会長に返還する岡田法政二高同窓会会長(2004全国法政大学卒業生の集い神奈川大会実行委員長)
▲ 参加者によるスクラム校歌
このオール法政新春を祝う会の模様は、法政大学校友連合会ホームページにも掲載されています。
2006.02.18
2006年2月18日17時から、川崎駅ビルBE8階・カメリアホールにおいて、第21回法政大学附属高校同窓会役員懇親会が開催された。
今回は、現在は廃校となっている法政工業高校同窓会(代表・徳原 勝利)が当番幹事校となり、法政三高法政半の木会(会長・谷 内親・廃校)、法政第一工業同窓会(会長・田中 清・廃校)、法政女子高同窓会(会長・大関 久子)、法政一高同窓会(会長・大石 勝康)、法政二高同窓会(会長・岡田 安弘)の6校同窓会の役員が一堂に会し懇親を深めた。
▲ 活動報告をする岡田会長
▲ 役員紹介をする早速理事長
▲ 左から櫻井女子高校長、岡田会長、松本法政二中高校長、森田法政一中高校長(着席のみ)
▲ 出席者全員の集合写真
当日、ご来賓として出席された法政一中高の森田校長からは、新しい学校作りに向けた意気込み溢れるご挨拶を、母校の松本校長からは、直面する学校現場のご苦労を率直に明らかにするとともに現在緊急最重要課題である大学が示した学力向上への対応策を含むご挨拶を、女子高の桜井校長は現在大学理事の要職にあり付属校と大学との調整に当たっているため女子校の方向性等についてご挨拶をいただいた。
2006.01.22
法政大学復路優勝記念懸垂幕、法政一高へも掲示さる!
この「優勝記念幕の贈呈 法政大学附属三校同窓会」の模様は、法政大学校友連合会ホームページにも紹介されています。
法政一高同窓会・相川財務副部長からのレポート
母校は、掲出スペースの関係で横断幕ではなく、懸垂幕になりました。
掲出場所は、特別教室棟の女子大通り側外階段です。
2006年1月2日・3日の両日にわたって開催された第82回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)における法政大学の復路優勝を記念して、法政二高、法政女子高、法政一高の同窓会により結成された駅伝応援プロジェクトは、法政大学陸上競技部の敢闘を称えるとともに、その競走の中で培われた法政スピリットを在校生にも受け継いでもらいたいという思いから、各校に対して、記念の横断幕を贈呈した。
2006.01.10
法政大学復路優勝記念横断幕、法政女子高へも贈呈し掲示さる!
この「優勝記念幕の贈呈 法政大学附属三校同窓会」の模様は、法政大学校友連合会ホームページにも紹介されています。
女子高同窓会・小笠原さんからのレポート
女子高の「祝 法政大学箱根駅伝復路優勝」の横断幕を設置した次の朝、生徒が登校して来て、坂の下から横断幕を見つけて『物凄く喜んで携帯で次から次と撮りまくってました』と警備受付の女性が話してくれました。
ところが、1月14日の夕刻から雨と雷と風で横断幕が木枠から外れてしまい、墨も雨に濡れて流れてしまったとのことで、短い命でしたが、生徒達の間に私達の心というのか…法政に対する気持ちが伝わったことは確かです。
2006年1月2日・3日の両日にわたって開催された第82回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)における法政大学の復路優勝を記念して、法政二高、法政女子高、法政一高の同窓会により結成された駅伝応援プロジェクトは、法政大学陸上競技部の敢闘を称えるとともに、その競走の中で培われた法政スピリットを在校生にも受け継いでもらいたいという思いから、各校に対して、記念の横断幕を贈呈 した。
2006.01.07
法政大学復路優勝記念横断幕贈呈
この「優勝記念幕の贈呈 法政大学附属三校同窓会」の模様は、法政大学校友連合会ホームページにも紹介されています。
▲ 1月9日に掲出された横断幕
2006年1月2日・3日の両日にわたって開催された第82回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)における法政大学の復路優勝を記念して、法政二高、法政女子高、法政一高の同窓会により結成された駅伝応援プロジェクトは、法政大学陸上競技部の敢闘を称えるとともに、その競走の中で培われた法政スピリットを在校生にも受け継いでもらいたいという思いから、各校に対して、記念の横断幕を贈呈することとなった。
法政二高同窓会では、1月7日に開催された学校当局と育友会の賀詞交歓会の席上で、松本校長、榎本副校長、永岡事務長に対し、横断幕の贈呈を行った。
▲ 正木総務主任、松本校長、永岡事務長と加藤同窓会副理事長
なお、横断幕には、「祝 法政大学箱根駅伝復路優勝」と「附属三校同窓会一同」の文字が書かれている。
母校での掲示は、9日から開始される予定である。
▲ 贈呈前の点検を受ける横断幕
箱根駅伝法政大学復路優勝記念横断幕贈呈三校同窓会長メッセージ
法政大学第一高等学校 学校長 殿
法政大学第二高等学校 学校長 殿
法政大学女子高等学校 学校長 殿
私ども法政大学附属三校の同窓会は、1月3日の第82回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)において、復路9区の戸部警察署前で法政二高育友会(舘 修二会長)とともに法政大学の合同応援を企画いたしました。
この企画は、2004年10月に開催された「法政大学卒業生の集い神奈川大会」の式典を陰で支えた法政大学附属三校の同窓会の有志が神奈川大会を築き上げた際に培った「絆」を今後とも深めていこうという趣旨で昨年の箱根駅伝の応援をほんの数人で行ったことから始まりました。
それが、1年後の今年の箱根駅伝では、三校の同窓会が同窓会行事として取り組み、さらには法政二高育友会もその趣旨に賛同していただき、法政大学の校名の入った幟6本を立てて、多くの同窓生、そして法政二高育友会の役員、法政二高の先生方にもその幟の下に駆けつけていただき、戸部警察署の前に大きな友情の花を咲かせることができました。
そして、その友情の花で応援した今年の箱根駅伝では、主力選手を欠いた法政大学が、復路では15位からのスタートにもかかわらず、最後まで勝利をあきらめない選手達のタスキリレーで着実に順位を上げ、大手町のゴールには総合7位の成績、復路だけでは法政大学初のタイトルとなる優勝という記録を打ち立てることができました。
三校同窓会では、逆境でも最後まで勝利を信じ、仲間を信頼して各自が自分の責任を果たした結果、復路優勝という大きなタイトルを勝ち取った法政大学陸上競技部の栄誉を称え、三校の在校生に先輩の雄姿を脳裏に刻んでもらいたいという思いと、その法政スピリットを受け継いでいただきたいという思いを込めて祝勝記念の横断幕を各校に寄贈させていただきます。
各校にはそれぞれの事情がおありのことと思いますが、三校同窓会の「絆」から生まれたこの横断幕を校内に掲出していただき、在校生に法政スピリットを受け継いでいただけるようご協力をお願いする次第です。
法政大学第一高等学校同窓会会長 大石 勝康
法政大学第二高等学校同窓会会長 岡田 安弘
法政大学女子高等学校同窓会会長 大関 久子
2006.01.03
法政大学初のタイトル 復路優勝
この「法政大学附属三校 箱根駅伝合同応援」の模様は、法政大学校友連合会ホームページでも紹介されています。
2004年10月に開催された全国法政大学卒業生の集い神奈川大会の式典を支えた法政二高同窓会、法政一高同窓会、法政女子高同窓会の有志が準備段階を含めた大会運営を通じて培った「絆」を深めようという趣旨で生まれた「法政大学附属校イベント部会」。
そのイベント部会の呼びかけに法政二高同窓会とともに昨年ラグビーの合同応援を行った法政二高育友会(舘修二会長)が呼応して2006年1月3日、第82回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の合同応援が実現した。
▲ 法政一高同窓会
▲ 法政二高育友会と二高教員。画像にはありませんが、母校から榎本副校長も応援に見えられていました。
▲ 法政大学を応援する幟と小旗
▲ ひときわ目立った法政大学の二段幟
▲ 法政二高同窓会・法政女子高同窓会
▲ 身を乗り出して法政大学・山口選手を応援
駅伝の競走結果は、応援の甲斐あってか法政大学としては、箱根駅伝史上初のタイトルである復路優勝を飾ることができました。
往路の総合15位から、大手町にゴールした際は、総合でも7位に順位を上げ、6位スタートから優勝を手にした亜細亜大学よりも順位を上げていました。
▲ 合同応援終了後の懇親会
合同応援終了後は、酔仙酒家で懇親会を行いましたが、この席に「復路優勝」の報がもたらされ、再度の乾杯となりました。
大関 久子・法政女子高会長からのメッセージ
昨日の15位から総合7位への復活。そして、初のタイトルである復路優勝。合同応援をした甲斐がありました。来年もまた応援しましょう。
舘 修二・法政二高育友会会長からのメッセージ
15位からの復路優勝。これも合同応援の賜物だと思っています。来年は、更に上を目指して頑張って応援しよう。
相川 欣運・法政一高同窓会財務副部長からのメッセージ
去年、数人からスタートしたイベント部会の合同応援。今年は、ひじょうに多くの同窓生による応援ができました。これからも合同応援を通じて附属校同窓会の「絆」を深めたい。
2005.10.29
母校元副校長の豊田國夫先生は2005(平成17)年10月29日の夜半、腎臓病のためご永眠されました。享年87歳。
豊田先生は、1948(昭和23)年1月に本校に就職、国語を担当されました。大戦中、陸軍の戦闘機乗りであったとは、とても想像できない温厚なお人柄で、怒った顔は私の在学中も卒業後も見たことがありません。
ご存知でしょうが、同窓会は1966(昭和41)年頃より1976(昭和51)年頃までの10年余り、休会状態を続けておりました。再び活動を開始したのは1977(昭和52)年4月からでした。この活動再開を起動させたのが、ほかならぬ豊田先生でした。
当時の日記帳が見つからないので、正確な日付は思い出せませんが…豊田先生から「○月○日○時より、小杉のほまれ寿司に集まってくれませんか」といった内容の電話を受けました。
当日、ほまれ寿司に行きますと、二階の広間に席が設けられており、休会前まで活躍していたOBと在校役員(宮崎先生等)十数名が出席していました。その席で、豊田先生から「学校側は同窓会活動再開を希望している」旨のお話を伺いました。
これを受けて、同窓会旧役員有志は、同窓会再開に向けて活動を開始した次第です。
穏和なご人格から選任されたのでしょう。たとえ、学校側の代表とはいえ、同窓会活動再開にご尽力された陰の功労者でありました。私どもは、この歴史的事実をけして忘れません。
み霊よ 安らかなれ
(文責:10期 森口 雄稔)
2005.10.15
2005年10月15日(土)13時から、横浜中華街の茘香尊酒家において18名が参加して開催されました。参加者が年々減っていくのは淋しいことですが、吾々4・5期生のほとんどの者が喜寿を迎え同慶の至りであります。
総会は、金子幹事長の司会進行で、三田清次君の発声音頭にて乾杯し、久しぶりの面々で歓談に入る。
当日は、伊東貞三君が宮内庁侍医を務められていた時に撮影された皇居内の希少なスライドを持参し、皆に披露した。終戦時、最後の御前会議が開かれた地下壕入口、徳川3代の家光の頃よりある大きな盆栽、見事な枝振りの松など…そして吾々世代に関心のある第二次世界大戦の方面別戦死者調査資料…の披露があり、最後に医者の立場から高齢者の健康管理の留意点についての話があった。
戦時中に入学、軍事教練、学徒勤労動員(援農、工場、陣地構築)、空襲の惨禍をくぐりぬけ敗戦を迎える。灰燼に帰した校舎の焼跡整理から旧制4年2学期が始まったのでした。当時の思い出話にあっと言う間に歓談の時は過ぎました。
戦後生まれが人口の7割以上を占める現在、体験を少しでも後世に伝えてゆければ思います。
最後に太田会長より挨拶があり、不参加者の近況報告があり、喜寿を迎えても元気なうちはできるだけ集まりましょう。文化勲章の日野原さんもそのように希望を持ち続けることが何より大事と言っておられる。今回も同窓会より御寄附をいただきました。厚く御礼申し上げます。元気な顔での再開を祈念いたします。
(文責:5期 富家 秀雄)
2005.08.28
慎んでご報告いたします。
母校元校長の佐伯有清(さえき・ありきよ)先生は、かねてより病気療養中のところ、薬石効なく、2005年7月19日23時07分に胃がんのためご永眠されました。享年81歳でした。
ご葬儀は、7月22日にご親族のみよる密葬が執り行われ、8月28日正午から東京都新宿区の「四谷たちばな会館」に於いて『お別れの会』が催されました。
『お別れの会』では、弔辞を成城大学我妻健治学長、北海道大学南部曻教授が読まれました。
日 時:2005年8月28日(日)12時~13時30分
会 場:東京都新宿区須賀町14-1 四谷たちばな会館
10期の森口雄稔さんから追悼文が寄せられていますので、掲載いたします。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
佐伯先生は、1952年(昭和27年)4月に母校に就任され、当時の3年生(10期)の日本史を担当されました。私は2組で時計塔の3階が教室であったと記憶しております。
当時、母校の日本史担当の教師は、笹目先生、芥川先生それに佐伯先生の3名でした。佐伯先生の授業は、生真面目な学者が研究発表でもしているようでもありましたが、クラブ活動とは別に歴史研究部を立ち上げて、ご自分で執筆された英文の著書をテキストにした指導もされていらっしゃいました。
3名の日本史担当の教師は、春には県内の国分寺跡、初夏には鎌倉の名所旧跡(ついでに海水浴も…)、秋には小田原城と箱根関所跡の見学旅行を催してくださいました。全校の日本史選択学級から参加者を募り、参加しなくても単位には関係ありませんでしたが、これらの校外旅行は、授業よりも楽しかった思い出となっております。
ご逝去されるまでの著作などは…
書著 42冊
編著・訳著・共著 46冊
論文・論評・その他 534編
蔵書に関しては、文学部教授を務められた成城大学の民俗学研究所に日本文化史・日本古代史・陵墓等の歴史関係図書8千余冊を寄贈し「佐伯文庫」として現在も収蔵されております。また、ご自宅にもまだ2万余冊が残されているとのことです。
ご略歴
1925年(大正14年) 東京・赤坂に出生。
1952年(昭和27年)4月 母校に就任。日本史を担当。
1966年(昭和41年)4月 母校教育研究所初代所長。
同年8月から1969年(昭和44年)3月まで母校校長に就任。
母校在職は17年間に及ぶ。
1971年(昭和46年)1月より1983年(昭和58年)3月まで12年3月間にわたり北海道大学文学部教授。
1983年(昭和58年)4月より1995年(平成7年)3月まで12年間にわたり成城大学文学部教授を務められました。
この間、1962年(昭和37年)に博士号を取得。1984年(昭和59年)には、「新撰姓氏録の研究」で日本学士院賞を授賞されました。
1995年(平成7年)1月9日に成城大学において最終講義を行い、同年3月26日には、東京都千代田区の学士会館において古希祝賀会を開催し、46年間に及んだ教師生活を終えられました。
最後の出版物紹介
『日本古代史研究と史料』佐伯有清編
A5版・上製 8,400円 青史出版
本書は、本来、佐伯先生の傘寿を記念しての出版予定でしたが、このたびの急逝により、追悼の意を込めて先生の略年譜及び全著作目録を付して刊行されました。
2005.08.09
同窓生でパーク24株式会社創業者である故西川清氏の葬儀・告別式が2005年8月9日(火)に執り行われました。
同窓会からは、岡田会長ほか多くの同窓生が出席し、故人とのお別れをいたしました。
なせば成る
なさねば成らぬ何事も
何事も、チャレンジすれば必ずできる。
できなければ、できる方法を考えればいい。
何事もやらなければ始まらない。
最初からダメとあきらめていては、
できることもできなまま終わってしまう。
頭の中でアレコレ考えた結果、
あきらめていることでも、いざ実行してみると、
意外なほど簡単にできてしまうものが
世の中にはたくさんあるはずだ。
(生前、故西川清氏が座右の銘としていた言葉)
2005.04.10
私ども12期生は、終戦10年を迎える節目の1955(昭和30)年に卒業した。当時、校舎は戦後間もない安普請の木造で椅子は縁台のような長椅子。2人で揺すると直ぐ壊れ何脚も壊れるのを目にした。鉄筋は時計塔の校舎のみで、周りは殆どが平屋で田んぼが点在し、遮る建物は無く、武蔵小杉や元住吉からもその雄姿を見ることができ、自慢しあったものだ。
卒業50年を迎えるに当たり、3年前から準備を始め、昨年は卒業50周年を前にクラス監事による『プレ同窓会』を企画したところ、口伝に広がり、遠くは兵庫や栃木等から横浜中華街の茘香尊酒家に駆けつけ、本番さながらの盛り上がりであった。
今年は、卒業50周年の節目に当たり、会場を日比谷公園内の松本楼で4月10日(日)13時から芥川、久慈、笹目の3名の先生をお迎えし、また、福岡、大阪、栃木の遠方や入院先の病院をこっそり抜け出して『卒業50周年記念十二期会』に参加するなど、総勢65名の出席者を得て記念同窓会は開催された。
当日は、山下時博君の司会で、松南裕之会長の挨拶後、来賓の先生方のユーモア溢れる教員室のエピソード等が飛び出し、和やかな雰囲気の中で各クラス単位に自己紹介を行い最高に盛り上がり、校歌を斉唱。15時30分閉会の辞で、5年後に再開を約したが、『古希』にもとの要望が出され、その後も何組もの輪が桜の花びらの舞うよう街に繰り出して行った。楽しかった思い出を土産に帰宅したのは終電前で、そのまま夢路へ直行した。
(文責:小林 哲雄)