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同窓会ニュース

2019.07.06

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 民俗学研究家 佐伯仁(13期)氏による「日本のこころ再び 日本の心の裏側を『なぜ・どうして』で探る」講演会が2019年7月6日(土)午前10時から鎌倉市議会・議会棟・全員協議会室で行われた。
 冒頭、佐伯氏は『日本文化の国際化が激しい昨今、日本文化の特異性を見失わぬために、日常現象を“なぜ・どうして”で顧みて、自国文化への認識を深めるために』とこの講座への想いを語った。
 今回のテ-マは「なぜ賽銭を投げるのか」。だが、「そもそも神様に向かって物を投げるとは何たることか?」と指摘されれば『なぜ・どうして』と思いませんか。いざ、先人達の想いと意味や如何、スライド他用、奥深い内容ながら軽妙洒脱な佐伯節の始まり、始まり!!

1.「賽銭」の語源
 先ず「銭」は判るとしても「賽」とは何?「賽」とは「報賽」「賽神」「賽子」「賽日」「賽社」「賽の河原」等の言葉にあるように、「神に縋り、伏して願い、神から福を授けて貰う。そして、その福への感謝のお礼」ということを意味する文字だという。

2.なぜ、銭を投げるのか?
 賽銭箱に賽銭を入れる時、神様に聞こえるようカラカラと音を響かせる様にするために、銭を投げる。そうすると裏山に居る神様に「音」で魔を祓いながら、交信する準備が整う。「銭=お金」は穢れたものだから、それを投げ入れることで神様に自分自身を浄化してもらうのだそうだ。何んと「投げる」理由を解く鍵は「音」にあったのだ。
 因みに初詣の祈願内容のベスト3は「家内安全」「健康祈願」「学業成就」だという。賽銭の金額は12円が「十二分のご利益」、2,951円で「福来い」、11,104円は「良い(いい)年」等と語呂合わせの金額を賽銭にするということだが、賽銭箱を前にして神様へのお願い事や決意表明の内容に見合う妥当な賽銭金額かな?と戸惑ってしまうのは私だけなのだろうか?
 賽銭は“投げて”供養したり、幸運を得るために銭を“聖水に浸し” (銭洗い弁天)たりして穢れた銭を浄める。よく「その話は水に流して」と言うが“水”は浄めの“信仰”と結びついていて何気なく無意識に日常で使われている。また、神や霊が好むものである“塩”は本来、神への供え物であるが、“水”だけでなく“塩”も穢れの浄めに使っている。(土俵への“撒き塩”や玄関口の“盛り塩”など)また、還暦や新年のお祝いに銭を“撒いたり”、お遍路では厄払いの賽銭を“置いたり”している。

3.「銭」以前は何を投げていたのか?
 穢れたものと言いつつ「銭」は貴重なものだ。そして「米」も貴重なものである。「銭」以前は「米」や「餅」を投げていた。「米」には穀物の神=穀霊が宿り、米と同等に「餅」にも霊力があり、銭に替わる縁起ものなのである。また、同様に穀霊が宿るとされる五穀の一つの「豆」。節分の豆撒きは厄払いの習俗だが、なぜ「鰯・柊・炒豆」を使うのだろうか?それは、「鰯」のくさい臭いと「柊」の棘、そして「炒豆」には、豆を“炒る” に“射る”を掛けて弓で鬼の目を潰し、魔を撃退するという意味を持たせたのだそうだ。

4.厄を祓い、清廉の心身へ
 神・仏による祓いの方法は、多彩で各地様々である。鈴や賽銭の音で神様を招き、穢れを祓って頂く。 “拍手”は神様への呼びかけ、“花火”は音と光で厄除け疫・病退散を請い、“弓”は弓の弦を弾いてベンベンと音を出し、神様への感謝の意を表わす。“拍手”も“花火”も“銭”同様に神様への祈念ツ-ルなのである。
 ドイツ人の禅僧・ネルケ無方は、著作『なぜ日本人はご先祖様に祈るのか』の中で『日本人の死に対する考えは不思議だ。生と死を厳密に分けず、繋がっている感覚を持ち、死者への親近感や依存度が高い。その一方で「死は穢れ」という概念があり、葬儀後の「清め塩」や数字の「4」を避ける習慣がある。』と日本人の先祖の霊に対する信仰心に驚いていると、外国人から見た、日本人の祖霊信仰について紹介。
 また、民俗学者の神崎宣武は、著作~これがニッポン教『神さま仏さまご先祖さま』で『初詣は神社、結婚式は神前、七福神巡りは寺社、葬式は仏式で、クリスマスパ-ティ-では賛美歌を歌う。わが国には唯一絶対の神はいない。崇める聖者は一人ではなく、日々恵みを賜り感謝の対象とする神すべてに手を合わせる。』と書いていることに触れた。
 まとめとして、神・仏・先祖を尊ぶ日本人の精神性は、清廉の心身への浄めの厄除・祓いの風習を育んだ。各地域で様々多種多様で漠然としつつも、神への真摯な祈りや祖霊・自然を尊び、命を凝視する姿勢は、脈々と続く“日本のこころ”なのだろうと90分の講演を締めくくった。
 最後に、『今回のテ-マに選んだ「賽銭」にまつわる話を調べていたら、(それに符合するかのように)日本で最初の「賽銭箱」は、ここ鎌倉(講演開催地)の鶴岡八幡宮とは意外だった』とあの博識の佐伯氏が唸っていた。私には、それがとても印象的だった。
 次回のテーマは「日本の“包む心”」(10月頃)を予定しているとの事。乞うご期待!
(文責:原和彦35期)



2018.06.09
講 演:日本の心 なぜ・どうして探る
     第2回テーマ『なぜ和菓子は縁起物が多い?』
講演者:民俗学研究家 佐伯仁(13期)
日 時:6月9日(日)午前10時~午前11時30分
場 所:鎌倉生涯学習センタ-
聴講料:500円
主 催:NPO自然環境と人間生活を考える会

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平成30年6月9日(土)午前十時。快晴の古都鎌倉。佐伯仁(13期)氏の「なぜ、どうしてで探る 日本の心」講演会の会場は鎌倉生涯学習センタ-。第2回のお題は「なぜ、和菓子は祝物が多い?」であった。

1.和菓子のはじまり
菓子の神 田道間守(たじまもりの)命を祀る
今から約1900年前、垂仁天皇(11代)の命で中国・東南アジアへ不老長寿の「霊果」を求め、十余年の歳月を掛けて探索。その妙薬を見つけて帰国した時、天皇は既に崩御。田道間守は悲嘆にくれて命を絶った。田道間守の忠誠心に感激した家臣たちは、公が持ち帰った橘のタネから芽生えた木を「たじまもりの木=たぢの花」を「たちばな」と呼んだという。現在でも兵庫県豊岡の中嶋神社では4月の第3日曜日に「橘花祭」が行われ、全国の菓子業者が商売繁盛を祈願し、地元の子供たちは田道間守を偲ぶ歌を合唱するらしい。因みに「橘の花」は永久の象徴として文化勲章に意匠化されている。
 田道間守が持ち帰ったものは、古事記では登岐士玖能木実(ときじくのこのみ)、日本書紀では非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)と言う。古来、樹木に実る果実を古能美(このみ)、久多毛能(くだもの)と呼んだ。平安期、「延喜式」には全国から朝廷に納められた「菓子」の名がある。甲斐から「青梨子」、丹波から「甘い栗子」等、当時はこうした果実や木の実、その加工品を「菓子」や「果子」と書いて「くだもの」と呼んでいた。
一方、遣唐使が伝えたものは、「唐菓子(からくだもの)」と言い米粉・小麦粉を捏ねて油で揚げたものであった。歌人、山上憶良は旅先で、自らの子供達に想いをはせて「瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ 何処より 来りしものぞ 眼交(まなかひに) もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ」(万葉集巻5・802)と「古能美(このみ)」の歌を詠んでいる。
 滋賀県大津市の小野神社では餅の神、米餅搗大使主命(たがね つきの おおみの みこと)を祀った1200年続く「しとぎ祭」が毎年11月2日に行われ、全国から多くの菓子業者が参加するという。これは、始めに「シトギ(粢)」ありきで「聖なる菓子」、蒸した糯米を指す。先祖は穀物に霊が宿ると信じ、米や麦などの穀類を餅・糒・飴・饅頭に加工し日々の糧にしてきた。そして、シトギや丸めた餅などにして神に供えた。臼や杵の誕生前、餅の登場前の加工方法である。「火」を使わないため、死者への「枕団子」にも使い、山海の神、田畑の神の祭りに供えられた。同じく滋賀・東近江の日枝神社の神饌「ちん」は男性のみが調理して神へ捧げる菓子。玄米粉で形を作り小豆の眼を入れ、猿・仔犬・ビワの葉など14種類を油で揚げた唐菓子を創り、神に供えている。
 「菓子」の名は、「不老不死の霊菓」として、「樹々になる木の実」も、また「厄を祓い、福を願うもの」として、はじまったという。

 2. 和菓子は季節の便り
文明開化で西洋の菓子を「洋菓子」と呼ぶようになり、その対比として「和菓子」という言葉が生まれたという。以下、季節の菓子を見て行きたい。
睦月・正月は菱葩(ひしはなびら)餅。別名「お祝いおかちん」、宮中の「歯固め」に由来する。「おかちん」とは宮廷言葉で「餅」の事。直径五寸、厚さ二分、白い餅を炙り、その上に小豆色の菱餅を重ね、二つ折りにし、白味噌と牛蒡の砂糖煮を挟み、白い美濃紙に包む。天皇、皇后には、お神酒と共に召し上がって頂く。庶民は、この餅を京風雑煮として年の初めを祝った。現在は裏千家の初釜のお菓子として知られているが、今は餅ではなく、求肥で創られている。六波羅蜜寺では正月の3日間、雑煮の前に「大服茶(おおふくちゃ)の行事が行われ、その際、縁起物の稲穂と皇服茶として長寿の梅干、厄払いの山椒、睦みを表わす結び昆布を供える。茶人は、この三種を菓子とし茶を点てるのだ。
如月。東大寺のお水取りでは、錬行衆が和紙で椿の造花をつくる。「糊こぼし」は良弁椿に因み名付られた菓子だ。「源氏物語」にみえる椿餅の今昔は、菓子が茶道と共に千変万化した様子を窺い知ることが出来る。
弥生。雛菓子「あこや」は真珠又は真珠貝をさし、台座から引き切るため「引千切」とも言う。人生の節目の行事菓子である。
卯月。「花の香を 若葉にこめてかぐわしき 桜の餅 家づとにせよ」(子規)。「桜餅」は東西で違う。関西は「道明寺桜餅」で引いた糯米の粉、塩漬けした桜の葉を使う。桜の葉の香りと甘さの舌触りを楽しむ。
皐月。武家の社会では家系の継続が基本。古い葉は若葉が出るまで落ちない柏の葉に縁起を担ぎ、東では「柏餅」だ。西では桑名の縁起菓子の典型「粽」である。道喜粽には神の力を頂くお守りの意味を込めた。また、「山帰来(サンキライ)」の葉で包んだ餅は、山で病を得た病人が、この木のお陰で元気に帰還したことの縁起でつくられた。本来、この木の根茎は、漢方薬として珍重された。この菓子は、鹿児島地方では「カカランだんご」と呼ばれているそうだ。
先人達は自然の力、霊力を菓子として頂くという智恵だけでなく、自然の美や詩歌を菓子に取り込む遊び心もあった。日本人の美意識・感性は「和菓子の美は菓銘に在り」という言葉で表現されている。それは、在原業平の短歌「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思う」(伊勢物語9段・東くだり)に因む「唐衣」。「渋かろうか 知らねど 柿の初ちぎり」(千代)の結婚前夜の句から創作された「柿 初ちぎり」等々で得心されることだろう。
水無月。万能の小豆で「冷やし汁粉」。「水無月」は氷を思わせる白い外郎(ういろう)を三角に切り、上に小豆を載せ視覚的にも涼味を醸す。関東では汁気が多いのが「汁粉」。関西では汁気の無いのが「ぜんざい」だが、その「ぜんざい」発祥の地は出雲だという。10月は神無月だが、出雲では神在り月。その神様たちが各地にお帰りの日が「神等去出祭」(からさでさい)。この日に餅を搗き「アズキ雑煮」を作る。これを神在餅(じんざいもち)といい神棚に供える。この「じんざい」が訛って「ずんざい」となり、京都で「ぜんざい」となったという。「小豆」は赤い色で命を感じさせる豆だ。古では「小豆」を食べる日は決まっていた。その日は、神や先祖の霊を迎える日「斎(いつ)き祀る」日に限られていた。この「イツキ」が訛って「アズキ」という言葉が誕生。祖霊を迎える日、婚礼のめでたい席は、さぞや賑やかで厳かだったことだろう。
室町時代以降、日明貿易で輸入した砂糖が菓子を普及させた。甘味の普及は更に「点心」へ。「点心」とは間食の意の禅語だが、羊羹や饅頭などが代表的だ。「七十一番職人歌合せ」の饅頭売り図。狂言「附子(ぶす・毒)」は、舐めたら死ぬと釘を刺されたものの、実は砂糖で、舐めたお詫びに全部舐めて死のうとする話。また、南蛮菓子。「サンタマリア上人の寺」、「南蛮寺」では、有平糖・金平糖・カステラ・ぼうろ等を布教のため振舞ったのではないか。大量の砂糖と卵を原料に使用した菓子は、当時の庶民はもとより、支配階級ですら口にしたことのない貴重な菓子だったのだから、思想より即物的な人身掌握には絶大な威力を発揮したはずだと思う。
江戸中期からは、上白糖・水・蜜に寒梅粉を混ぜ、木型に入れ、型から抜き一晩、乾燥させた「干菓子」が普及した。
「菓子」は、季節の暮らしの節目、神事・仏事に献上、季節感を工夫し創作されてきた。

3.郷土菓子は風土の恵み・温もり
 「菓子」は、庶民の心を豊かにした。福島の「小法師」と「神饌花餅」。「小法師」は、飴を石衣で丁寧に包む。「神饌花餅」は、竹皮で結んだ求肥製。仙台では、伊達藩の非常食用の「ほしい」が払い下げられ「駄菓子」になったという。
また、各地の地名に因んだ菓子は土地の銘菓として今日に至っている。江戸から十三里の芋の産地、埼玉・川越は「栗(九里)より旨い十三里」と頓智を聞かせた芋菓子。群馬の「五家宝」は、古くは棒状で御荷棒と言ったものを菓子にする時に改名。茨城の「水戸の梅」や「みやびの梅」は梅の名園からの発想か?
神奈川・鎌倉の八幡宮にあやかる「鳩サブレ」と「だんかずら」。大磯の名物「西行」は西行が大磯で詠んだ歌(新古今集)「心なき身にあわれは知られけり、鴫たつ沢の秋の夕暮」が由緒だという。「花の香を 若葉にこめてかぐわしき 桜の餅家づとにせよ」(子規)と詠んだ江戸っ子好みの「桜餅」だったのか。「言問いだんご」は「だんご」と言っても串には刺さっていない。都鳥を描いた絵皿に盛り粋を演出している。「くず餅」は亀戸天神の参拝者で繫昌し、役者・作家の「口コミ」で200年を経た老舗の味だ。地元調達の寒天は・茅野、長野・下諏訪の「塩羊羹」や小布施の「栗羊羹」は大粒の栗が丸ごと入っている、正に沃野の風土の味だろう。家康の金算出の祝いに献上したという曰くつきの静岡・「阿部川餅」に旅人は、縁起を担いで舌鼓を打ったことだろう。長崎・「一○香」、愛媛・「一六タルト」は和風ロ-ルケ-キ。350年前にポルトガルから伝来した。島根・「山川」は大名茶人・松平不昧公に因む銘菓。これらは繊細な技の結晶だ。香川・徳島の特産砂糖といば「和三盆」。原料のサトウキビを地元産の「竹糖」を使い、盆の上で砂糖を三度「研ぐ」という独特の工程製法で仕上げる。
 風土の実りを技で生かし、伝統に現代の感性を込め、舶来の味にも好奇心旺盛に挑み創り出された郷土菓子は風土の恵みそのものではないか。

4.祝菓子は神仏への祈り
 石川県・金沢「福徳」「辻占」「福梅」などは運を試し、幸を呼びこむ縁起菓子。「縁起」とは仏教が説く宇宙論。室町期の国語辞典「下学集」によれば、「ものの始まり」を指す。「東大寺縁起絵巻」は、その典型だが、「物の前兆」を窺い知る事への転換だ。江戸期には商人、芸人、花柳界で「縁起」は使わた。「運を好転させる占い」、また占いを叶えるにふさわしい「縁起物」が創られ、よく売れたらしい。「江戸の三縁記」と言えば「八つ頭」「切山椒」「熊手」だが、厄払い・招福を神に頼む縁起物だ。つまり「縁起菓子」に神との共生の願いを込めたのだ。菓子の素材は、神からの頂き物。その恵みに感謝し、縁起の良さを願い、目出度さをその色、形に結晶させたのだろう。例えば「雛祭り」に供える「菱餅」は三色(紅・白・緑)だが、「紅」は「天・桃の花・魔除け」、「白」は「人・残り雪・清浄」、「緑」は「地・萌える草木・健康(長寿)」。想いを色に込めたという。また、「菱」型は角ばって棘のあることで魔を弾く意味があるらしい。ご存知の「鬼子母神」は、千人の我が子を持ちながら他人の子を食べ続けた。その悔いから子育ての神になったという。滋賀県・大津市・三井寺には30万坪の境内の中央に「鬼子母神」の社があり、毎年5月16日から三日間「千団子祭り」が行われている。
 6月16日は「菓子の日」だが、これは平安初期の848年・嘉祥元年6月16日、仁明天皇(54代)が神前に16種の菓子を備え、厄除けを祈念したことに因んだ。江戸期、江戸城中でも「嘉祥の儀」を公家に劣らぬよう、武士も知識教養として和菓子を愉しんだという。幕府は登城した大名、旗本へ杉の葉を敷いた片木盆に16種の菓子盛りを大広間で配った。その数は2万個に及んだとか…暑さ厳しくなる時期での健康管理を促すイベントでもあったのだろう。
 夏ばて防止の縁起菓子「氷室饅頭」は金沢片町の菓子商が創案し大当たりした。弘法大師・空海が悪疫退散を祈り、津島神社へ供えた「あかだ」「くつわ」。熱田神宮の「藤団子」、滋賀・田村神社の「蟹坂飴」、三重・松坂 岡寺山 継松寺「厄除けせんべい」などは神に祈る生への祈り、神々と共に頂く神饌菓の代表格だろう。
 人知を超える神の霊力を仰ぎ、祈る心を菓子に込めて供える。身分を越え崇める心が一つの一つの縁起菓子・祝菓子となって創られて今日に伝わっている。
 佐伯氏は「和菓子」とは、「神仏との絆を菓子に込めて、季節と人生の節目を大切にした先人たちの匠の技と感性で甦る日本美である。」と言い、90分の講演を締めくくった。
 次回は9月8日(土)同会場・同時刻。テーマは「なぜ優美?源氏物語の色」。さて、どんな色だろうか?佐伯氏の事だから、単に、草木染めの古代装束の色彩がどうのこうのでは終わるまい。乞うご期待、是非ともご来場の上、至福のひと時をご堪能あれ!!

(原和彦35期)



2018.04.07
講 演:日本の心 なぜ・どうして探る
     第1回テーマ『なぜ王朝人は猫を愛玩?』
講演者:民俗学研究家 佐伯仁(13期)
日 時:4月7日(日)午前10時~午前11時30分
場 所:鎌倉生涯学習センタ-
聴講料:500円
主 催:NPO自然環境と人間生活を考える会

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 2018年4月7日(土)午前10時。鎌倉生涯学習センタ-において佐伯仁(13期)氏の講演会「日本の心 なぜ・どうして」新シリ-ズが始まった。新シリ-ズの目的は「昨今、日本文化の国際化が激しい中で、日本文化の特異性を見失わず、日常現象を“なぜ・どうして”で顧みて自国文化への認識を探ること」だという。
 その第1回目のお題は「なぜ、王朝人は猫を愛玩?」。今や空前の「猫」ブ-ム。何んとペット数で「猫」が「犬」を超えたという。逆転の訳は、躾や散歩の負担が掛からないことだけではなさそうだ。「猫」の魅力とはいったい何だろうか?

1.「天上人になった猫」
 「猫」の字源は「犬(けもの)」+音符の「苗」から成り立ち、苗は「なよなよして細い」の意。猫を(びょう)というのは、鳴き声「ミャオ」から来た擬声語。また、猫の元の名は「ネコマ」(源順編集「和名抄」)、「猫の“ネ”は鼠也。“コ”は好む也。猫は鼠を好む獣。」(貝原益軒著「日本釈名」)とある。2011年には長崎県壱岐市のカラカミ遺跡から二千年前、日本最古の猫の前腕の骨が発掘された。中国・朝鮮半島では経典を齧る鼠退治のために猫を飼育したという。どうも「猫」は仏教と共にわが国に渡来した舶来上等、希少価値の高いブランド的な動物だったようだ。
 文献上には、宇多天皇の日記「寛平御記」や「日本霊異記」の頃から「猫」は登場している。「枕草子・第七段」には、一条天皇が愛玩した猫(おとど)の描写がある。更に「源氏物語・蹴鞠(若菜上帖)」では、王朝の姫君たちが男性との会話も御簾越しで、出来るだけ几帳の陰に隠れ、扇で、袖で、長い髪で顔を隠すのが「たしなみ」とされていた当時、蹴鞠をしていた光源氏が御簾の間から猫が跳び出した瞬間に、想いを寄せていた女三宮の横顔をハッキリと見ることが出来た「蹴鞠と猫が仕掛けた恋」の場面を綴っている。また、大の猫好き歌川国芳は「賢女烈婦伝 大納言行成女」・「錦絵・百人一首之内 権中納言家定」など、当時の古典をもじって「猫」を登場させた絵を数多く描いている。

2.「怪しい猫・愛しい猫」
 鎌倉期「明月記」(藤原定家の日記)には怪獣=猫又が登場。「徒然草・八十九段」や「鳥獣人物戯画」(甲巻)にも「猫又」の記載がある。江戸時代の妖怪双六には化け猫、「佐賀の怪猫騒動」、鶴屋南北の「独道中五十三駅」は化け猫が歌舞伎に登場した最初だという。昭和28年頃、“化け猫女優”と呼ばれた入江たか子の大映映画“化け猫”シリ-ズが大当たりした。人々は肉食で闇も透視する姿に“怪猫”を想像したのだろうか?
 一方で「猫」は「太陽神ラ-の化身」や「お松権現」など、東西で「守護神」として崇め奉られている。わが国の南北では鹿児島の「猫神神社」、会津の「猫魔ヶ岳」には昔、山猫が多く生息し、この山猫は災難除けの霊験があると「磐梯神社」ではお札を配布している。
 更に「三光稲荷神社(猫返し神社)」や「自性院(猫寺)猫地蔵」。そして「回向院」の「猫の恩返し」伝説(因みに猫の墓の隣には鼠小僧次郎吉の墓もある)。や東福寺の涅槃図には「魔除けの猫」が描かれている。「猫又権現の狛猫の石像」や「鼠よけの猫」(国芳作)、「鼠よけのお札」等々。特に江戸期の養蚕家では鼠退治に「猫」は不可欠だったという。
 ところで中国・唐の時代、怪異記事を集録した書物「酉陽雑俎」には「旦(あした・朝)と暮は円く、午に及べば竪に引き締め線の如し」と記され、猫の目と時刻の関係を示した図が室町期成立の百科事典「塵添?嚢抄」にある。その特性故に猫は戦場にも連れて行かれ、各部隊に配属され猫の瞳孔の開き方で時刻を確認したという。
 さらに「“右手”上げは“お金”を招き “左手”上げは“人”を招く」という「招き猫」。「浄瑠璃町繁花の図」(初代・歌川広重画)には幕末の「招き猫」ブ-ムを流行に敏感な浮世絵師が活写。大の猫好き遊女「薄雲」を描いた「古今比売鑑 薄雲」(歌川芳年画)など人懐こく両掌に乗る快さに魅せられた「女性と猫」を格好の画材とした手法は「娘に猫」(歌川国政画)、「美人愛猫図」(小林永濯画)、「女十題」・「黒船屋」(竹下夢二画)、「猫画」(岸田劉生画)へと続き、「猫」に対する飼い主の表情は慈しくむ愛情深さが窺えるものばかりである。

3.「ニッポン 超・猫天国」
 「猫」は化けても幸運を招き寄せた「井伊直孝と豪徳寺の猫」の逸話や、「猫」の行動が人へ警告を発するという江戸中期の浮世絵「軽筆鳥羽車」に描かれた「猫に鰹節」は、油断禁物の喩えであり、また絶好のタイミングをも意味しているという。また、「絵」は絵師・円山応挙、「柄杓」は俳人・蕪村の合作「猫も杓子も…」は「猫」が人を和ませている図だ。江戸庶民は「猫鼠合戦」で「猫」を愉しんだ豆本を愛読。また、「猫」狂いの絵師・歌川国芳は「猫」と戯れ、「猫」を侍らし、悠々と「猫」と遊ぶ「かつお」・「荷宝蔵のむだ書」・「千両役者と猫」・団扇絵の傑作と名高い「猫のすずみ」等を含め、歌舞伎の化け猫を描いた「日本駄右衛門猫之故事」画等々、国芳の猫ワ-ルドが炸裂しているのだという。

4.「猫なし人生なんて!」
 思えば日本近代文学の豊饒は、漱石の飼い猫から生まれたらしい。明治38年1月「ホトトギス」に第1回「吾輩は猫である」は掲載された。本当は「猫」と題し一回だけの予定を子規が小説執筆を勧めた。子規の友情で、漱石のヒット作となった。また、1964年「文化勲章受賞」の大仏次郎は幼い頃から無類の猫好きだった。「猫のいない人生なんて考えられないし、僕が死ぬ時、この可憐な動物は僕の傍らにいるに違いない」と言い放ち、500匹と暮らした文豪が蒐集した猫グッズは300点余という。また、池波正太郎も「猫のいない自分家は考えられない」と言い、仕事に疲れると猫を可愛がり、夜、寝しなに飲むウイスキ-はいつも猫と一緒だったという。更にギャグ漫画の大御所、赤塚不二夫は愛猫の「菊千代」と寛ぎ、「ニャロメ」のモデルは少年時代に故郷・奈良大和郡山で
出会った逞しい野良猫だったという。また、長谷川町子は没後、国民栄誉賞を受賞しているが「家族の一員の猫に死なれて半日泣き暮らした」と語り、彼女の代表作「サザエさん」には雄の白猫「タマ」が家族の一員として存在感を示している。
 ところで横浜市営地下鉄「踊場」駅。構内の壁面には、猫の目模様のデザインが処され、3番出口のすぐ右横には、南無阿弥陀仏と彫られた「念仏供養塔」があり、この碑は猫の霊をなぐさめ住民の安泰を祈念した近隣住民によって1737年に建てられ、「猫の踊り場」と呼ばれ「水本屋のトラ」という“猫伝説”が伝わっている。
 全体の“まとめ”として「猫」は、高級ブランドとして愛玩され、甘えても媚びない生き方に共感、しかも怪奇さ可愛さの両性を具有しているのが「猫」の魅力なのではないかという。
 最後に佐伯氏は、「暮らしの智恵が民俗学」であると断言。「『目に見えないもの』を『合理主義』で切り捨ててきた今日、神・人・自然(動・植・鉱物)とのコミュニケ-ションを思い出し、先祖が育んできた智恵を、もう一度見直すために、国際交流が盛んになり日本文化の根っ子が見失われないために民俗学に拘っている」のだと申し述べ、約90分の講演を結んだ。
 次回は「和菓子」(なぜ、和菓子は縁起物が多いのか?)と題して6月9日(土)同会場・同時刻で開催される。大先輩の佐伯氏によるば仰げば尊し「我が師の恩」ならぬ「和菓子のあれこれ」が愉しみである。

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(文責:原和彦35期)




2017.07.16
講 演:東洋と西洋 比べて語る「民俗学」第5回テ-マ「診療(みる・いやす)」
講演者:民俗学研究家 佐伯仁(13期)
日 時:7月16日(日)午前10時~午前11時30分
場 所:鎌倉生涯学習センタ-
聴講料:500円
主 催:NPO自然環境と人間生活を考える会

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  「鎌倉生涯学習センタ-」2017年7月15日(土)午前10時。佐伯仁(13期)氏の講演会「「東洋と西洋 比べて語る民俗学シリ-ズ」今回のテ-マは「診療(みる・いやす)」である。毎度お馴染みの4部構成で、スライドの多用は、佐伯節を盛り上げる。

1.医療の始まり 呪術・医神
 2017年3月10日の朝日新聞・朝刊には5万年前、スペインのエルシドロン洞窟で発掘されたネアンデルタ-ル人が歯痛に苦しんで痛み止めに、現代の鎮静剤や抗生物質の成分を含む植物やカビを口にしていたらしいという記事が掲載された。発掘調査の結果、それはアスピリンの原料になるサルチル酸を含むポプラと抗生物質ペシリンを生成するアオカビだったという。
 人類は古くから人体への探究心から、新石器時代の穿孔頭蓋骨や前600~200年頃のミイラ製作用青銅ナイフ、遺体は細いリネンで巻き、「死者の書」の巻物が両手の間に添えられていた。紀元前3千年前には48種類の疾患治療の内科・外科の手順を列記したエジプト最古の医師・イムホテプ(前27世紀)は魔術的な呪文を拒み、薬草もちいた治療文書は、2000年後のヒポクラテスの臨床・観察より遥かに進んだ知識が記されている。
 古代ギリシアの二大医神といえば、死者も甦らせた医術の神・アスクレピオスと迷信・呪術を切り離した臨床と観察医学の祖・ヒポクラテスだ。また、メソポタミアでは、医師は司祭を兼ねていたという。ギリシア医療の最古の文献、ホメロスの「イリヤス」には戦傷例147件が記載されている。トロイヤ戦争から外科医の活躍が始まったという。アスクレピオス神殿は病院も兼ねていた。英雄アキレスが戦友パトロクロスに包帯を巻く絵画や、医神の息子マカロンが戦士の傷を手当する彫刻が残っている。人類の歴史は、戦いの歴史でもあったのだ。
 東洋でも古代中国の医神・医書がある。中国医学の理論的基礎と診断法を記した医学原典「黄帝内経」(前2500年頃)は、中国創世神話の神の一人で最初の帝である「黄帝」が編纂させたという。古代中国の伝説の神「神農」は農業と医術を教えた。我が国では、医療の神々といえば、赤裸になった白兎に治療法を教えた「大国主命」や薬の祖神で疫病除け、湯治の神であり道後温泉を発見した「少彦名命」が知られている。神武東征以前、大阪周辺の支配神は、死者を甦らせる神「饒速日命」で奈良・天理市の石上神社の「ふるべの神事」や東大阪市の石切劔箭神社が名高い。680年(天武天皇9年)に皇后・持統天皇の病気平癒を祈り創建された薬師寺には癒しの祈りの証として「薬師三尊像(月光菩薩、日光菩薩、薬師如来)」が祀られている。

2.「手当て」の原点 祈りと仁術
 そもそも「医・診・療」とは、古く医者は巫女と同じ仕事のため「巫」の字がついた。酒壺で薬酒を醸すの意の「醫」。箱入りの「矢」と「槍」で外科医。見落としなきよう調べ判断する「診」。病気をばらばらにして取り去る「療」となったという。
 「手当て」とは、「日本国語大辞典」(小学館)によると①「あらかじめ備える」②「算段・工面」③「方法・手段」④手当(給金)」⑤「心付け」⑥「費用」⑦「もてなす」⑧「病気・ケガの処理」。今の医者は患者に手を当てることもなく、PCばかり見て患者を見ない。その通りだが、本来の「手当て」とは程遠い現状だと手厳しく容赦ない。
 593年、聖徳太子は「四天王寺」建立に併せ「施薬院」・「悲田院」を設立。後に光明天皇も723年(養老7年)「興福寺」をさらに後に「法華寺」も設立したという。「法華寺」は光明皇后が総国分尼寺として建立。本尊は十一面観音だ。「法華寺」内にある蒸気導入式の蒸し風呂は、明和3年(1766年)に再建されたそうだ。
 光明皇后の「施浴伝説」をご存知だろうか?「皇后は千人の垢を流す誓いを立てる。千人目が癩患だったが、誓いに従い患者の膿まで吸出す。するとその時、患者は紫雲と共に仏の姿となり消えた」と「元亨釈書」(1332年)に記されている。(元亨釈書(げんこうしゃくしょ)は日本の歴史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史。)また、僧行基(668~749年)が有馬温泉で薬師如来の化身の癩患者を洗ったという伝説(「古今著聞集」1254年)もある。「法華寺」以後、「施浴」は諸大寺も倣い、仏教布教に貢献した。平安期、地方には旅人のため「続命院」、「救急院」、「悲田処」を設置した。施浴のシ-ンが描かれた東大寺「大仏縁起絵巻」。因みに「東大寺」の大湯屋は、「二月堂」の裏参道で食堂を抜けて「塔頭寺院」を過ぎたところにある。
 西洋でも医学の対象としての湯がある。ドイツ・ア-ヘンの温泉療養はローマ侵攻以来の温泉場で、現在でもカルテに従った近代的な入浴療養が行われている。
 ストレス解消としての入浴といえば、日本にもある。心も解放される湯治の湯だ。快い湯加減、湯の香り、陽の光り、風の音に癒される。因みに「草津温泉」は昭和6年、外国医師の指定で「癩病」に効く湯治場となるが、「癩病」専用薬の開発で国立癩病療養所も閉鎖されたことから、観光温泉地として今日に到っているという。
 「指圧」や「お灸」はツボを刺激する、手の温もりで急所を押え優しさで癒すのである。江戸期の按摩さんの浮世絵、1951年誕生の公益法人兵庫県鍼灸師会、今は懐かしい「伊吹山のもぐさ」の包装袋のスライドが映し出された。
 一方、西暦500年以来、アイルランド・クレア地方の「聖女ブリキッド(ケルト神話の女神)泉水」は万病に効く霊水。治癒力への信仰は全土に及び、ケルト文化圏で顕著だ。「弘法大師」は全国を行脚し、数々の奇跡を残した。東西共に「聖人に願い」を届け民は癒されたという。
 先祖の霊魂、自然への畏れから生まれる「西洋の妖精」は、自然とのふれ合いからキリスト教以前から崇められてきた。ケルト民俗の神々及び先祖の霊魂たち「妖精の森」、「(真夏の夜の夢の女王)・ティテニア」、「小鳥の卵を盗む妖精」たちだ。
地中の宝を守り、鉱脈の在りかも知っている「レブラコ-ン」や緑の上着の気まぐれ人「ビクシ-」、人間の家に住み、馬の世話をする「リョウタン」は日本では「妖怪」の部に入るのだろうか。知恵も労力も旺盛な神秘的な力が、人を畏れさせながらも癒すのだろう。
 湯島天神の「撫ぜ牛」や善光寺の「おびんずるさん」は、「手を当」て撫ぜてご利益を得られるという信仰が今日まで続いている証である。
 京都西陣の「石像寺」は「弘法大師」が石に仏像を刻み、「苦を引く地蔵」が訛ったことで、釘抜き地蔵信仰が始まったという 。鎌倉の「上行寺」には、平安期の瘡守稲荷の祠があり、腫物・皮膚病に霊験あらたかと言われた。現代では「癌除け」の治癒神として名高い。
 我が国では「絵馬」を奉納し、願いを神仏に託すが、2世紀のロ-マの交易船の船舶のモザイク画は、安全を期すために、舳先に「聖眼」を飾っていた。また、エジプト考古学博物館に所蔵されている第22王朝、紀元前890年頃のシェションク2世のブレスレッドにも「聖眼」が飾られている。これらは、「聖眼」は護符として邪視を祓う信仰の証だったのだという。
 星印の「セーマン」と「ド-マン」は海の魔除けのマ-クだが、鳥羽の海女の道具(へら)と手拭に縫い付けた二つマ-クは海の魔除けだという。真珠の「潜り漁法」がペルシャからの渡来だということから考えれば、このマ-クもペルシャから魔除けの信仰と共に渡来したのではないだろうか。
 さらに、「宝石」を身に付けることで、その色、例えば、真珠の「銀色」は心臓に効き、ルビ-の「赤」は止血。トパ-ズの「金」は妬みや怒りを鎮め、ダイヤモンドの「黒」は骨折を防ぐ。エメラルドの「緑」は富をもたらすという様に「色の護符」として医術へ影響を与えたという。
 古来宮中では、「薬玉」を御帳に掛け時節の薬草の「香り」 や鈴の「音」で邪を祓う風習があったが、現代では「薬玉」や「匂い袋」等は本来とは違う使われ方がなされているようだ。

3.病いを救う 薬と病院
 先史時代に人類は、すでに体験的に薬草を日常的に活用していたらしい。3000年前まで生存していたネアンデルタ-ル人の歯の化石から、カシミ-ルとノコギリソウをはじめ、胃の消化を助けるイヌハッカ等の様々な薬草の痕跡が発見されている。
 ロ-マ時代の薬剤師と助手の墓の彫刻や関節炎や痛風を治す鎮静剤を処方した医術の神イムホテプの像、コブラの冠とライオンの頭を持つ戦いと治療の女神セクメトが描かれた壁画等は古代エジプト・ロ-マが共に医療への深い関心を伺わせる数多くの物証が発見されている。
 日本書記や古事記には、数々の薬草に因んだ記述がある。伝統的な薬湯として、3月の「桃の葉湯」、5月の「菖蒲湯」、12月の「柚子湯」の風習は現代でも行われている。正倉院の薬物の記録は、聖武天皇没後、遺愛の品を光明皇后が東大寺の大仏に献納した「種々薬帳」。縦26センチ、横2メ-トルで60種類の薬物を21個の木箱に区分し、全面に御名御璽の朱印が捺されている。この「種々薬帳」の制作者は、医術と薬学に通じていた僧 鑑真である。鑑真は僧侶の奢った姿勢を憂い、同時に奈良期の未熟な医療の向上を願い聖武天皇の熱意ある懇願により、玄宗皇帝の反対を押し切り失明しながらも来日。持参した薬物の真偽・分類を嗅覚のみで行った。代表的なものに「麝香、沈香、大黄、犀角、五色龍歯」など鉱物薬、動物薬が多かった。
 「漢方療法」は、病気は体内の「気」の流れの乱れが原因と考え、気の動く経路上の「経穴」(体の器官と繋がっている)を針で刺したり、灸を据えたりして刺激するが、「西洋医学」では解剖学的な見地から臓器、組織に病の原因を診る。8世紀頃、中東・西アジアで医術盛況の時代を迎えていた。アラブ医学の偉大な医師で小児科と眼科学に貢献したムハンド・アル・ラ-ズィや健康と薬の著作多数で特に「医学典範」は各国語に訳され、医者・医学生に影響を与えた医学史上、偉大な著作を残したイブン・スイナ-等が居た。当時ヨ-ロッパは暗黒時代だったが、西アジアではイスラム文明が発展していたのだ。
 中世では「理髪師」が鋏や剃刀を使うので「医者」の役割も兼ねていたという。パリ大学は医学部に理髪学科を設置していた。16世紀イギリスでは理髪師ギルドと外科医ギルドが合併し、互いに情報交換を行っていた。当時の薬局はアラビア風で、その場で患者を診察。薬剤師には占星術師や錬金術師もいて、まるで当時は科学サロンの雰囲気だったという。現在でも、あのクルクルと回る赤(動脈)と青(静脈)と白(包帯)の床屋の看板に、理髪師は医者であったという証がみられる。
 7世紀頃の修道院では医学校も兼ね、婦人科、産科、産婆術、出産前後のケアも指導され、9世紀には病院も併設されていたという。11世紀、イタリア・ボロ-ニャ大学では解剖学の教授に中世イタリアの著名な外科学医師・タッデオ・アルデロッチを迎え学生達が活気づいた。同イタリア・サレルノはヨーロッパで最初に認可された医学校で女性に内科医の資格を与えたが、パリ大学では1220年女性医師禁止令が出ている。
 病院の原形は1451年、ブリュゴ-ニュ公国の宰相の資金援助で建設され「神の家」と呼ばれた、貧しい人々のために無料で医療を施した市民病院的な「オルテ・デュ」だという。サンティアゴ巡礼の終点に建つ壮大な建物は、昔は王立救護院、今はホテル「パラド-ル」。そもそもHospital(病院)はラテン語のhospitalia(主人が客を接待する場所)から派生したのだそうだ。
 1557年、戦国期のキリシタン大名・大友宗麟が、ザイビエルの後を継ぐ宣教師・医師ルイス・メイ・アルメイダに土地を与えたことから日本最初の病院は出来た。アルメイダは、まず乳児院を建て、私財を投じ、外科、内科、ハンセン氏病を治療する総合病院を建設し、無償奉仕の医療を行った。、西洋医術の発祥の地としての矜持だろうか、大分豊後には1969年開設の「大分市医師会立アルメイダ病院」がある。
 織田信長はポルトガル宣教師に命じ、伊吹山に3000種の植物を揃えた薬草園を開設した。また、徳川家光は小石川に薬草園を開設、吉宗の代には療養所も開設された。
 日本初の洋式病院は1861年「長崎養生所」として、オランダ軍医・ポンペを教師に迎え、塾舎・解剖室を揃えた学校兼病院を長崎奉行の助力を得て、松本良順が頭取となり貧困層向きにスタ-トさせた。ところで救済医療の二大巨星といえば、医療衛生の改革に尽力し、統計学者、看護教育学者であり、現在の看護の在り方を確立したイギリスのフロ-レンス・ナイチンゲ-ルと国際的な救護団体「赤十字社」を創設し、第一回ノ-ベル平和賞を受賞したスイスのアリン・デュナンだ。余談だが共に1910年に亡くなっている。
 1902年当時、築地はキリスト教の居留地であったため、米国聖公会の宣教師ルドルフ・トイスラ-は築地病院を買取・改修し、「聖路加(ルカ)病院」とした。1917年に「聖路加国際病院」と改称、東京都選定の歴史的建造物であるこの病院の敷地内チャペルの壁には、神の前に跪かせるため「蠅・蚊・蚤・南京虫」の巨大な4枚のレリ-フが埋め込まれているのは、公衆衛生普及、伝染病絶滅を訴えた当時の思いの象徴だろう。
(7月18日、日野原重明さんが105歳で永眠された。ここに哀悼の意を表します。)

4.細菌追放・癒す仁術(疾病へ挑む 病理学の曙)
 Doctor(医師)はラテン語で「教える人」、アメリカ北部インディアンの俗言では「魔術師」、Remedy(治療)もラテン語では「再び癒す」という。Medicine(薬)はMedicine man(魔術師・呪術師)となる。西洋の病理観は四体液の不調和がもたらすという。古代ギリシャのエンペドクリスやヒポクラテス、また同じく古代ギリシャの医師ガレノスが唱える学説によると「人間は4つの体液から成り立っている(血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁)」。この4つの物という考え方は、アリストテレスの万物生成の元が「火・空気・水・土」であり、地球上を支配している4つの性質は「熱・乾・冷・温」だ。病気は、この4体液の均衡の乱れに由り、医者はその乱れたバランス回復を図り、瀉血を行い、薬物を処方する。この説は古代ギリシャ・ロ-マ・イスラム世界、ヨーロッパで支持されていたという。
 これら「哲学的な観点」から人の謎を解く立場とは別に、「物証的な観点」から解剖と薬学に貢献した古代ギリシャの医師ガレノスは、人間の精神は3つの脳室に宿ると考えた。また、ダビンチは人体に隠された黄金比を人体図に描くことで追及した。
 1543年イタリア・パドヴァ大学でヴェサリウスが専用解剖学劇場で解剖学の授業を行ったのが、世界初の解剖らしい。
 日本初の解剖書は山脇東洋の1759年刊行「蔵志」と1774年ドイツ人医師の医学書のオランダ語訳から翻訳された「解体新書」。前野良沢と杉田玄白の共著は有名だ。当時の日本は儒教の国だったので腑わけはご法度だった。1853年、世界に先駆けて華岡青洲は漢方・蘭方を学んだ「朝鮮アサガオ」から抽出した生薬製剤の麻酔薬「通仙散」を用いて全身麻酔による乳癌手術を行い成功。手術で切開した皮膚を縫い、傷口に塗った生薬「紫雲膏」(紫根・ゴマ油・蜂蜜・豚脂・当帰の軟膏)は現在でも各生薬メ-カ-が製造している。
 18世紀のヨ-ロッパでは6千万人が患者となり、平均1年間に六十万人が死亡したという伝染病の「天然痘」。イギリスのエドワ-ド・ジェンナ-は1765年天然痘予防接種に成功、以後世界に普及した。人類にとって最悪の伝染病を消滅へ向かわせ「予防医学」という新しい分野を拓いた功績は大きく「近代免疫学の父」と言われる所以だろう。因みに新しい医療分野は1896年、レントゲンのX線発表と続くのである。
 天然痘は735年の天平期に日本へ上陸、第10次遣唐使船帰国後、藤原兄弟及び天武天皇の皇子が死去。以来、江戸期では天然痘にかからぬよう、新しい神棚にお神酒、供物、住吉大明神を疱瘡神として祀ったり、赤色のモノが効くと「猿ぼぼ」と呼ぶ民芸品的な「お守り」が流行ったらしい。明治9年、幼児への予防接種が義務付けられた。安政5年、日本は開国。長崎在住のオランダ人医師ポンペが、「寄港した米艦が中国から運んだのだ」と言う虎列刺(コレラ)が大襲来し、江戸の死者は3~4万人となり火葬場は大混雑した。「衛生隊」は石炭酸で戦うが効果なし。昔ながらの民間治療薬の梅干しの梅酢が効いたらしい。梅の産地・紀州では被害が少なかったとか‥明治19年には死者11万人、皮肉な事に「文明開化」はコレラに無力だった。
 伝染病の「ペスト」は紀元前429年のペロポネソス戦争で発症した。ローマ帝国では165年、14世紀のヨ-ロッパでは人口の三分の二、三千万人が死滅。日本へは1896年に横浜で発症した。1679年、猛威を振るったペストの終息を神に感謝して造られた大理石の柱がブタペストの「ペスト記念塔」だ。フランスのアルベール・カミュが書いた小説「ペスト」の最終に「ペストは死なず、待ち続け、再び人に不幸と教訓をもたらすため鼠を呼び覚ます」と書いたのは、人類の奢りを戒めたのだという。
 ワクチンによる予防医学への道を拓いた、近代細菌学の二大開祖、ドイツのロベルト・コッホは「炭疽菌・結核菌・コレラ菌・ペスト菌」を発見し、1905年にノーベル生理学・医学賞を受賞。フランスのルイ・パスツ-ルは「乳酸菌・酪農菌」の発見を通じ発酵・腐敗は微生物によるものと証明。その後、「狂犬病ウィルス」も発見した。
 1889年、パスツールの弟子・北里柴三郎は「破傷風菌」の培養に成功した。また世界に誇る日本の細菌学者といえばロックフェラ-医学研究所で「黄熱病・梅毒」を研究し、ノ-ベル生理学・医学賞に3度名前が挙がっただけで終わった、野口英世(アフリカで没)。さらに1897年赤痢が大流行し9万人が死亡した「赤痢菌」を発見し、文化勲章を受章したのは志賀潔。その後の日本医療の流れは2012年に体の組織の素の「ips細胞」の再生に成功し、ノ-ベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥、2015年に熱帯地方河川盲目症に効く特効薬を開発しノ-ベル生理学・医学賞を受賞した大村智へと人体ミクロ圏のチャレンジは続いている。
 忘れてならないのは日本古来の心が癒されるご接待のお遍路。今、外国人の遍路行脚が流行っているという。“四国巡礼こそ癒しの旅”―という口コミが更なる旅行者を呼び込んでいる お遍路には行けない日本人は介護福祉士や介助犬、盲導犬等の動物の力も借り、また、花の香りで嗅覚を目覚めさせ、心身をリラックスさせ、心を慰めるアロマテラピ-等で手当の心、癒しの心を求めているらしい。
 見逃せないのは「笑い」。笑いは人を勇気づけ、エネルギ-を与える。「笑顔」は生きる力を取り戻し甦らせるのだ。笑いを医療に取り込む、若き医師の勇気を描いた米国の医療映画「パッチ・アダムス」(7月にテレビ放映)。日本でも、沖縄の天国に一番近いアイドル小浜島ババ「KBC84」や日本をポ爺ティブに平均年齢67歳の高知ジジ「爺POP」という活動は正に「笑い」で活力を得て老境をエネルギッシュに生きようとする老人力の讃歌だ。
 「まとめ」に佐伯氏は、日本は「仁術」、西洋は「苦痛緩和」。東洋医学は全体から考え治癒力を高める「バランス医療」だが、西洋医学は部分で考え、痛みを軽減する「部分医療」と言えると東西の比較をし90分間の講演を締めくくった。

 次回は9月16日(土)「学ぶ・教える」同会場・同時間で開催される。
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ご来場を乞う!!
(文責 原和彦)





2017.04.29
講 演:東洋と西洋 比べて語る「民俗学」第4回テ-マ「色は語る」
講演者:民俗学研究家 佐伯仁(13期)
日 時:4月29日(日)午前10時~午前11時30分
場 所:鎌倉生涯学習センタ-
聴講料:500円
主 催:NPO自然環境と人間生活を考える会

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  ゴ-デンウィ-ク初日、29日(土)晴天の古都鎌倉。お馴染み「東洋と西洋 比べて語る民俗学」民俗学研究家 佐伯仁(13期)氏の講演会が行われた。第5回テ-マは『色は語る』。軽妙洒脱な佐伯節は、最早“話芸”。話の合間に入るスライドが更に好奇心を掻き立てる。佐伯氏は、必ず一貫して冒頭に講座の目的を伝えテーマを4部で構成する。

1.権威と護符の色“赤”
 古人は東西南北、方位の神の化身に色を付けた。ご存知、青竜・朱雀・白虎・玄武である。特に“赤”は、悪霊を祓い、生の甦りを願う色として古墳の中で死者の霊を守る色らしい。聖徳太子が定めたとされる「冠位十二階」(徳(大小)=紫、仁(大小)=青、礼(大小)=赤、信(大小)=黄、義(大小)=白、智(大小)=黒)は役人の身分を「衣冠」の色で正した。
 ところで、万葉集には「紅」が語る恋心・愛情を詠んだ歌があり、古代女性がの艶が表現されている。そして王朝の美といえば十二単衣。女性たちは年齢・季節で「色」を合わせ「襲」(かさね)に教養と感性のセンスをもって色の着分けをしたという。
 さらに、紅が語る“艶と憧れ”を芭蕉は「行く末は誰が肌に触れむ紅の花」と詠み、与謝野晶子は「臙脂色は誰にかたらむ 血のゆらぎ 春のおもひのさかり色」と“深い紅(臙脂)”を燃える心、情熱の色として詠ったが、本来“赤“は招福、魔を祓う加護の色なのだ。
 日本は多神教、西洋は一神教だ。「色」=「光」の捉え方の違いが「色彩肯定」(クリュ-ニ派)と「色彩否定」(シド-派)の「色」をめぐる教会の対立を生み、光を取り入れるステンドグラスが建築様式を変遷(ロマネスクからゴシックへ)に繋がったという。しかし、西洋でも“赤”は“特別な色”として中世王侯の護符の色柄ベ-スになったり、バチカンの聖職者たちは赤い法衣でコンクラ-ベに臨んでいる。
 宝石を貴重視する伝統は、その色に神聖な威力を畏怖したためだが、赤い輝きで宝石の女王と言われる「ルビ-」は、勇気をもたらし、勝利を呼ぶ石として権力の象徴だ。
 ところで、“紅”(くれない)の色素材に東西の違いはあるのだろうか?西洋では“貝殻虫”、東洋では“植物”(紅花・茜の根・蘇芳の芯材)を主に使用していた。余談だが、ブラジルには良質な“蘇芳”が多生していたため、ポルトガル語の“蘇芳”の染料名「ブラジレイン」(燃えるように赤い色)がブラジルの国名となったそうだ。また、“貝殻虫”は赤い染料となるが、薬剤(浄血剤)にもなる。正倉院の紅牙撥樓尺(こうげばちるのしゃく)という儀式用物差しが現存するのは、この効果だろう。貝殻虫(カイガラムシ)は世界に約一万種いるらしい。アンデス文明を彩った“赤”もサボテンに寄生する臙脂虫(カイガラムシ科)で染色、なんと祇園祭の月鉾の絨緞(タペストリ-)は、17世紀にインドを支配したムガ-ル帝国で製作された「世界で一枚」と言われるものだそうだが、この“赤”色部分も臙脂虫の染料が使われているのだという。
 西洋でも魔を祓う色は“赤”。幼いキリストの首に赤珊瑚の首飾りをつけ、幼児に赤い服を着せたりしているが、昔は“赤”は男の色として、戦意高揚と晴れ姿的な意味合いで傭兵の防寒用の首巻(ネクタイの始まり)や我が国でも「真田の赤備え」(戦場の晴れ着)として名高い。
 スタンダ-ルの「赤と黒」は軍人(赤)か聖職者(黒)の象徴としてタイトルを色で
表現した。また、藤原定家は日記に、平家討伐に立ち上がる源頼政を「紅旗征伐、我が事に非ず」と記している。「紅旗(こうき)」とはいわば「錦(にしき)の御旗(みはた)」の意(い)で、その旗(はた)の下(した)での争い事(あらそいごと)に自分は関与しない」と述べている。これとは別に“赤”色は“野望の色”としても認識されていた。
 “赤き誘惑”の代名詞、ココ・シャネルの“口紅”や三越の包装紙のマゼンダ(赤紫)を基調としたデザインは一流のステイタスシンボルであった。

2.気高く神聖な色“紫”
 正倉院所蔵の聖武天皇遺愛「金(こんこう)光明(みょう)最勝(さいしょう)王(おう)経(きょう)」が、紫色に染めた和紙に金文字で写経されているのは“紫”色を神聖視した証だろう。清少納言は「枕草子」で「花も糸も紙もすべて なにもなにも むらさき なるものは めでたくこそあれ」と絶賛。万葉集「あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる」は、“紫草”の薬草園での出来事を額田王が詠まれた歌だが、“紫草”は漢方薬では解熱、解毒剤の効用がある。大伴家持の時代、五月五日は薬狩りの日だった。男たちは強精剤となる鹿を追い角を獲った。女性は薬草を摘んだ。この日は盛装して「かきつばた 衣に摺りつけ 丈夫の 着襲ひ 猟りする 月は來にけり」と詠んだ。杜若の色香を晴れ着に摺りつけた様子を万葉集に残している。
 西洋での色の発見は、光からであった。アイザック・ニュ-トンは、“色は光”だと確信し、スペクトラムを発見した。ニュ-トン光学では、虹の七色は電磁波の波長の短い紫・藍・青・緑・黄・橙の順になり、もっとも長い波長が赤である。我が国では「古事記」の中に出てくる色は、赤橙黄緑青藍紫と色数が少ないが、万葉集では植物の歌も増えて色数が豊富になっているという。
 ところで宝石の煌めきは、医術へも影響を与えた。(真珠=銀色=心臓に効く、ルビ-=赤=止血、トパ-ズ=金=妬み・怒り・鎮め、ダイヤモンド=黒=骨折を防ぐ、エメラルド=緑=富をもたらす)など宝石を護符とした伝承も数多くあるらしい。
 紀元前3000年前、地中海では、アルファベット、航海・造船術、染色、ガラス工芸技術の先駆者フェニキア人が活躍。1グラムの紫色の原料採取に2000個のアクキ貝が必要だったという。古代ヨ-ロッパで “紫色”は、富と権力を象徴する最高の色だった。
 中国でも、漢の武帝は“紫色”を好んで着用し、明の永楽帝が“紫禁城”を改修、この城は時代を経て清朝滅亡まで宮殿として使用された。我が国では、“庶民の紫”。歌舞伎の助六が巻いている冴えた青味の紫(江戸紫)の鉢巻とさびた赤味の紫(京紫)の着物が “粋”を語っている。また、華岡青洲の“通仙散”(朝鮮アサガオから抽出した麻酔薬)や“紫雲膏”は現在も各生薬メ-カ-が製造中である。

3.似て非なる“青”
 “青”の顔料として、東洋では植物(蓼藍)、西洋では鉱物(ラピスラズリ)が使われた。
我が国では「藍(あい)四十八色(しじゅうはっしょく)」という言葉がある。飛鳥・平安では“澄んだ縹(はなだ)色”を愛し、鎌倉・室町では“褐色(かちいろ)”を「勝ち」と解し武家に人気を博し、江戸では耐久性に富んだ木綿を“藍”で染色し、虫よけの薬効もあり藍染めの仕事着が普及したという。
 “藍”の原産地はインドネシア北部だというが、藍の色素成分インディゴを含む染草は世界に分布していたのだろう。エジプト・テ-ベ古墳、パキスタン・モヘンジョダロ遺跡、中国・馬王堆古墳など、各地の遺跡から“藍”は発掘されている。日本・高松塚古墳の壁画に描かれた飛鳥美人の青色は、アフガニスタン産のラピスラズリが使われていたのだという。正倉院の“青”の宝物と言えば、ササン朝ペルシャ製のワイングラスのような形をした「瑠璃杯(るりはい)」と大仏開眼供養の際に筆に結んだ紐「縹縷(はなだのる)」だろう。
 “青空”の東西比較。英語ではスカイブル-・スカイグレ-・ホライズンブル-。中国語では天蓋・井天蓋・海天蓋。日本語で“青空”の記載は「源氏物語」にも見られるものの、日本は四季があるのに気象に因む色名が少ない。日本の色名は染色技術に由る植物名が多いという。
 西洋では、聖母の象徴は“青衣”。カルロ・ドルチェの「哀しみの聖母」やエルグレコの「受胎告知」に描かれた落ち着きと気品の色だ。また、中世フランスのカペ-王朝の百合の紋章は信仰・知恵・騎士道の象徴として3つの百合の花が描かれているが、その紋章の下地は神聖の色である“青”である。
 ところで英国で宮廷喫茶が広まった頃、「青い茶器」も“嗜好品”として定着。中国で「青花」、日本で「染付」と呼ばれたブル-&ホワイトの器である。同じ青い器でも故宮博物院所蔵、北宋時代の汝窯(天青色)「青磁(せいじ)無紋(むもん)水仙(すいせん)盆(ぼん)」は青磁の最高傑作であり、南宋時代の天目茶碗「曜変天目茶碗」は我が国の国宝である。
 江戸時代に確立した浮世絵版画の最終形態「錦絵」には、青緑系の葱に似た浅葱色が多用されている。明治以降、化学染料による明るい青緑色は、新橋芸者に人気で「新橋色」として名高かった。
 さらに“青”色は“宇宙と勇気”のシンボルだ。イランのモスクの装飾は“青”色を基調に小宇宙を感じさせ、アフリカの「青の民」と呼ばれる遊牧民族・トワレグ族の男性は、砂漠の戦士の証として青いタ-バンを身に纏っている。 我が国でも染付の美「伊万里」の“青”や北斎(「富嶽三十六景」神奈川浪裏の富士)の“べロ藍”(ベルリン藍が訛った)はジャパンブル-と呼ばれ海外で絶賛されたのは、日本人の誇りの一つだろう。黒田清輝は「湖畔」で涼風の“藍”で湿潤な風土の涼し風を、フェルメ-ルは「真珠の耳飾りの少女」で光が内包する“青”を表現した。そしてマチスの「ブル-ヌ-ド」、セザンヌの「セントビクトワ-ル山」、ピカソの自画像などは、「自然」の青、「感性」の青を作品に籠めたものだという。
 また、“藍色”は仕事着や日用品にも好んで使われている。田植え行事の無形文化遺産である「花田植」の仕事着は、紺絣と菅笠が典型だし、食器の約六割が藍色なのは心が落ち着くからだろうか。

4.“盛”の色 “忌”の色
 フランス・ノ-トルダム寺院のステンドグラスは「シャルトルブル-」と称えら得ている。(四部始まりのスライド画像)そして四部最初の色は、“緑色”。東西比較で英語の“グリ-ン”はカラス科のジェイブル-に発し、明るい緑味の掛かった青のことを言い、我が国の“翠”(みどり)はカワセミ(翡翠)に発し、緑色の羽のメスの意である。緑色のイメ-ジは、英語では母なる大地の豊饒、生命を表わす。エジプトのイシス神は豊かなナイルの土壌を表わす豊饒の神で「エメラルドの貴婦人」と呼ばれた。古代メキシコ・パカル王の翡翠の仮面は、緑の生命力にあやかり命の再生を祈ったという。日本語の「嬰児」(みどりご)は首輪を付けた瑞々しい生命力あふれる女児を示す。また、“緑”色は新生や青春の躍動を感じさせ、樹を神の依代に見立てた祭りは、ドイツ・オ-バ-バイエルン地方の「五月の樹祭」や長野・諏訪神社の「御柱祭」など、東西共に天と地の神の結婚を促し五穀豊饒を祈っている。
 そして15世紀初期、フランドル派のヤン・ファン・エイクが描いた「アルノルフィ-ニ夫妻像」や川端龍子の「筍」は “緑・翠”の 予祝の色を使い、見事に再生のシンボルである瑞々しき豊饒を表現している様が今日にも伝わってくる。
 次の“黒”色は東西共に “威”も表わす。西洋で“黒”色は煤から創った顔料(ランプブラック・カ-ボンブラック)を使用し、日本では松の煤に膠を練り込んだ顔料を使ったという。ディエゴ・ベラスケスの「自画像」や我が国で12世紀末に描かれた「神護寺三像」(源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像画)等は実に“黒”色が威厳に満ち満ちた雰囲気を醸し出している。余談だが「墨に五彩あり」(焦・濃・重・淡・青)と言われ黒の中にも多彩な色味がある。
 さらに“黒”色は、今も昔も西洋では“哀しみ”の色だが、東洋では“白”色が“哀しみ”の“喪”の色であった。我が国では、文明開化を機に喪服は“黒”色となったという。もともと“黒”色の衣服は、托鉢僧の装束・伊達政宗の黒脅し甲冑、そして新内閣の組閣発表画像などでお馴染みだが「これ以上の色には染まりません」という畏れと決意の意思表示の色だという。
 多彩な縞柄を纏った女神画像が多数掲載されている「中世ヨ-ロッパ写本における運命の女神図像集」は、当時、多彩な縞柄は不埒な色の代名詞で迷いの多い人生を暗示する象徴の色だったことを表わしているのだ。

 最後に佐伯氏は、“人生は宝石の如し、色いろに輝け!”と講演を締めくくった。そして、「我が国の国際交流が盛んになることは好ましい事だ。しかし、日本文化の根っ子を見失わないで欲しい」と述べた。佐伯氏は、民俗学の“語り部”としての使命感から講演を行っているが、実に年4回のペ-スで8年目に突入した。午前10時から90分間の「色」がテ-マの講演会は、まさに色いろと多種・多用・多岐・多彩な内容。講演終了後直ちに、次回予約を切望する聴講者も居り、補助椅子を追加するほどの大盛況振りだった。

 次回テーマは『診療(みる・いやす)』、7月15日(土)同会場・同時刻に開催される。
(文責 原和彦)



2016.12.04
講 演:東洋と西洋 比べて語る「民俗学」第4回テ-マ「旅する」
講演者:民俗学研究家 佐伯仁(13期)
日 時:12月4日(日)午前10時~午前11時30分
場 所:鎌倉生涯学習センタ-
聴講料:500円
主 催:NPO自然環境と人間生活を考える会

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 学びの旅としての「修学旅行」。冒頭に映し出されたのは薬師寺五重塔を背景にした集合写真のスライド。それは、大方の日本人にとって最初の「旅」(家族以外)の原体験なのかもしれない。何故、今、「民俗学」なのか?東西の分岐点は何処なのか?何時もながらの軽妙洒脱な佐伯節は始まった。

1.神への旅 仏への旅
 「旅」の語源は、漢字では「旗に集う」・「給(た)べ」(他人に食を求める日々)の転化で、英語では「苦労する」・「骨を折る」ことだという。我が国では“聖地”を円を描くように巡ることが“遍路”である。単に目的地を目指すだけでなく、そのプロセスを大切にする。四国88札所巡りは、金剛杖と白装束に「同行二人」と書かれた “笠”を被り、「発心・修行・菩提・涅槃」の各道場1400キロの遍路を巡る。厄払いの賽銭を置き、道々に地元の人々のご接待を受け心が通う。そして最後の札所で結願(けちがん)を戴き、「救済の道」を巡らせて頂いたことに感謝。「蟻の熊野詣」と呼ばれた「熊野三山巡行」も同様だ。
 西洋の三大“巡礼”路、バチカン帝国(ローマ)とエルサレムへの道、そして「星の草原のヤコブ」と呼ばれた「サンティエゴ巡礼の道」は、フランス各地からピレネ-山脈を越え、スペイン北部への約800キロで、12世紀には50万の人で賑わったという。道々の十字架や帆立貝の図案標識に励まされ、天国への直線的な路を進む。現代では麦畑の道を陽気にトレッキングの服装で巡る。そして長く厳しい旅路のフィナ-レで「巡礼証明書」を貰う。 東洋的“遍路”(円環=母なる文化)の「発願」も西洋の“巡礼”(直線的=父なる文化)の巡礼証明も共に「心の浄化と再生を祈った」“証”なのだという。

2.道を拓き 道を制す
 古代に東と西を結んだ「陸と海」のシルクロ-ド。ローマ発、街道の女王と呼ばれた「アッピア街道」。その街道の遺跡「サンセバスティ-ノ門」や「チェ-ラ・メッテラの霊廟」は当時の面影を偲ばせる。“道”は領土の拡大と征服をもたらす。東方へ進んだアレキサンダ-大王は11年間の遠征を経てヘレニズム時代を築き、西方を目指したチンギス・ハンは13世紀、中国・中央アジア・イラン・東ヨ-ロッパを征服し、世界最大の帝国を築いた。
 また、マルコポ-ロは24年の体験を「東方見聞録」に記し、コロンブス、バスゴダガマ、マゼラン等は香辛料を求めて東洋を目指し、海洋に“道”を拓き、交易に励んだ。
 1620年、布教のために清教徒はメイフラワ-号でアメリカに渡った。300年後の1927年、ニュ-ヨ-クからパリへの大西洋無着陸飛行を果たしたのはチャ-ルズ・リンドバ-グだ。これら陸海空の遠征・航路開拓が、旅の拡大図となったことは間違いない。
 我が国では、高千穂の国から大和への「神武東征」に始まる。江戸幕府が開いた五街道は「参勤交代」による幕藩体制確立の一環であった。因みに「参勤交代」同行家臣の人数は藩の石高の0.001%(播州赤穂5万石では50名)と決まっていたという。
 ここで「五街道」のプロフィ-ルを少し申し上げる。すべて、お江戸日本橋を拠点に「東海道」は京都(約500Km)間。「中山道」は草津(約450Km)間。「奥州街道」は白河(約192Km)間。「日光街道」は日光(約144Km)間。「甲州街道」は下諏訪(約212Km)間である。
 日本人なら常識だが、「東海道」には「五十三次」の宿場があった。「広重」の浮世絵は当時の様子を偲ばせ、幕府が開いた「武士の道」は「民衆の道」(「絹の道」「鯖街道」「塩の道」)となり、「運搬の道」ともなった。
 東・西廻りの「北前船」や英国の「ティ-クリッパ-」は一刻でも早く物産を運びたいとう想いの創意工夫が、快速帆船を生みだしたのだろう。
 3.旅籠(はたご)とHOTEL
 「旅」といえば“宿”、つまり「旅(はた)籠(ご)」=「くつろぎの場」だ。西洋の「HOTEL」はラテン語の「Hospes(旅・宿主)」に発し、「旅人をもてなす場所=Hospitality」から「病院=Hospital」へと派生。巡礼の終点に建つ王立救護院は、同じ神を崇める者の義務として「くつろぎの場」を提供。宿泊・食事・治療を行い、今は5つ星ホテル「パラド-ル」となり中世からの「旅籠」の精神を継承し、見事にその伝統の役割を果たしているという。
 江戸時代、我が国では一生に一度の旅が「お伊勢参り」だった。年間十万人、当時の人口の20人に1人の割合だ。文政13年の「おかげ参り」(伊勢神宮への集団参詣)では、三月半で約428万人の人出だったという。沿道では「施行(せぎょう)」の札を掲げ、握り飯を積み上げて旅人をもてなしたらしい。伊勢参りの請負人「御師(おし)」は、今でいう旅行コ-ディネ-タ-の様なもの。各宿場では旅人の争奪も激しかった。因みに「土産(みあげ)」の語源は神への供え物を入れた容器を参拝記念として頂き持ち帰ったことから、「宮笥(みやけ)」が転化したものだという。現在でも大きな袋に「地名」が書かれた「土産(みやげ)袋(ぶくろ)」は、その名残なのだろう。つまり、何を持ち帰ったのかと言うよりも、何処へ行って来たのかが、とても大切なのだ。
 「旅(はた)籠(ご)」は東西のオアシス。旅人は客として当然の権利で泊り、未知の情報を提供し、各地で交流。旅人(客)の土産話は“貴重な糧”として大歓迎されたという。
 4.旅の愉しみ 哀しみ
 17~18世紀。イギリス貴族の子弟は古典的教養修得のため、ヨーロッパへのグランドツア-を行った。パリを始めルネッサンス発祥の地、イタリアへ。ロ-マの遺跡見学等では、各国の上流階級や学識経験者と交流。家庭教師と一緒の肖像画を描かせ、華麗な舞踏会に参加するため仕立て屋に流行の服を注文した。愉しき日々の滞在期間は数年間に及んだ。
 西洋の旅行記といえば、「ガリバ-旅行記」。55歳のジョナサン・スウィフトが執筆したイギリス批判の風刺物語だ。日本では、船旅の辛さ苦しさを記した紀貫之の「土佐日記」。上総から京への旅を綴った菅原孝標女の「更級日記」。京から鎌倉への旅程を書いた阿仏尼の「十六夜日記」がある。更に玄奘三蔵がインドから教典を運んだ物語が「西遊記」。「ドンキホ-テ」は、正義を貫く旅人ドンキホ-テとセルバンテスの物語。人生を旅に喩、風になりきり(風流)風狂の心を追い、漂白した芭蕉と曽良の「奥の細道」。信仰の旅であるはずの「大山詣り」、「善光寺詣り」、「富士講」等は名ばかりで、物見遊山的な気晴らしの旅が結構あったらしい。
 江戸の滑稽本といえば駄洒落(だじゃれ)・狂歌(きょうか)。その中で名所の案内記として名高い、十返舎一九の「東海(とうかい)道中(どうちゅう)膝栗毛(ひざくりげ)」は当時定番の観光ガイドブック。その著者の辞世の句は「此の世をば、どりゃお暇(いとま)と線香の煙となりて、はい(灰)左様なら」如何にも彼らしい。
 「旅」は名物を味わい、舌と体を満喫させる。また、旅する芸人が描かれた東西の絵。遠方にある吊るし首の遺体、車轢きの車輪、杖をつく盲目の楽師が犬に引かれ歩む西洋の絵。東洋の浮世絵には三味線を手に越後を漂白する盲目の旅芸人の絵。東・西と問わず、「旅は道づれ 世は情け 人生また哀しからずや」也。楽師は宮廷に侍り、吟遊詩人・宮廷楽人トルバドゥ-ルや遍歴楽師の一家が描かれている「ハ-メルンの笛吹き男」。かのデンマ-クの童話作家アンデルセンは「旅は学校」であると言った。、玉手箱をあけ、魂が消え、“たまげた”浦島太郎。メ-テルリンクの「青い鳥」、「母を訪ねて三千里」など旅で醒める夢と現実。そして、人生の峠をいくつも旅した二人の詩人が残した詩を披露する…
 「幾山河越えさりゆかば 寂しさの 果てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」(若山牧水)
 「おうい雲よ いういうと 馬鹿にのんき そうじゃないか どこまで ゆくんだ ずっと 磐城平の方まで ゆくんか」(山村暮鳥) 
 嗚呼、甘露甘露…。最後に佐伯氏は、恒例の「民俗学に拘る理由」を述ベお開きとした。

 2017年「東洋と西洋 比べて語る民俗学」の予定。4月「色は語る」・6月「診る」・9月「教える」・12月「遊ぶ」とのこと。民俗学の「旅」は更に続く、おいでやす鎌倉へ。
(文責 原和彦)





2016.09.11
2016年9月11日(日)午前10時~11時30分
東洋と西洋 比べて語る「民俗学」第3回テーマ「奏でる」
講 師:佐伯仁(13期)民俗学研究家
場 所:鎌倉生涯学習センタ-/参加費:500円 
主 催:NPO自然環境と人間生活を考える会/後 援:鎌倉市

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 冒頭、佐伯氏曰く、この講座で伝えたい事は「昨今、日本文化の国際化が激しい中で、その特異性を見失わぬために、似て非なる現象を比べ自国文化への深い認識を得るため」とし、その手法として風俗・習慣に息づく生活の知恵を探る「民俗学」を基本に、世界の諸民族の環境・文化・社会を研究する「民族学」の考え方で、其々のテ-マを追及すると言う。
 そもそも「東洋と西洋の分岐点」は何処なのか?それは、シルクロ-ドの終着点イスタンブ-ル、ボスポラス海峡なのだそうだ。そして今回のテーマは「奏でる」。恒例の四部構成、スライド多用、軽妙洒脱な佐伯節の始まりだ。

 最初は「神と交わる音」。人間は大昔から洋の東西を問わず「音」は、「この世とあの世を結ぶもの」であり、「魔除け」になると考えていたらしい。神前で大鈴を鳴らし柏手を打つ、鶴岡八幡宮の「除魔神事」・「流鏑馬」、相撲の無事終了と土俵の安寧を感謝し祈る「弓取り式」。楽器の響きをバックに声高に呪詞を朗詠し、神がかる韓国やチベットの巫女。「古事記」には天若日子(あめのわかひこ)の埋葬で10日の間、遺体に「魔」が近寄らない様にと歌舞や音楽を奏上し続けたという記録が残っている。日本の古墳からは、琴を弾く埴輪(「弾琴男子像」)や生木の松の笛、エジプトやメソポタミアでは葬祭の儀式に使用した後に副葬品として埋葬されたとみられる楽器が出土している。この世と同じ「宴」をあの世にも持って行ってもらいたいという「鎮魂」と「魔除け」の祈りを籠めたのだろう。
 また、逆にあの世から雲に乗って降りてくる様を表現した宇治平等院の鳳凰堂に舞う「飛天」の数々は「楽・舞」に映える「慈悲の心」であり、天使達が音楽を奏でる「天の調べ」は「神の恩寵」を伝え、「悪魔を祓う」のである。さらに、「豊穣の牧神(パン神)」は下半身が山羊(多産の象徴)の人間で芦のラッパを吹き、「神楽」・「ガムラン」・「バロンダンス」等々は「収穫への感謝」、「五穀豊穣への祈念」、「鎮魂儀礼」として音を奏でていると言う。
 つまり「音を奏でる」ことは、祀の場に神を招き、神威・歌霊で死者を守護し、神懸かりで神託を得るなど「人と神との交信」に欠かせないものなのだ。

 次に「伝統と創意」。701年文武天皇(42代)の御代、「雅楽寮」を設置、オーケストラのコンサ-トマスタ-的な「楽頭」(がくとう)という役割があった。古代ギリシャでは舞台の前にとられる舞踏、合唱のための円形の土間(オルケストラ)は直接、観客席に接し、「オ-ケストラ」の語源になったという。「演劇+音楽」の時代は、1600年、出雲大社の巫女クニが大社修復の寄付興業のために女性歌舞団を組織し、後に「人形」浄瑠璃から「人間」が演じる歌舞伎へと変遷。同じく1600年、フランス・アンリ4世とメディ家の姫との婚礼の祝典でオペラ「エウリディ-チェ」(ペ-リ作曲)が上演された。18世紀中頃には“ソロ”より“重厚さ”を求め、ハイドン、ベ-ト-ベンの「交響曲」と共に「オ-ケストラ」編成へと創造される。
 さらに、東洋の「声明(しょうみょう)」(仏典に節を付けた仏教音楽のひとつで、儀礼に用いられる)や西洋のグリゴリオ聖歌隊(楽譜化し布教)は、整然として荘厳に響く、聖なる歌声を創り出して行く。大正1年、渋沢栄一など当時の財界人はオペラ劇場を外交の場として「帝国劇場」を造ったが、一般大衆向けに田谷力三、藤原義江などは「浅草オペラ」を創設した。日本オ-ケストラの事始めはドイツ留学から帰国した山田耕作、その耕作に師事した近衛秀麿は「新交響楽団」を大正14年に創立し、今日の「NHK交響楽団」の礎を築いた。
 西洋の音楽は「牧畜・酪農」の知恵から生まれ、生産技術の創意工夫が論理的な音づくりにも影響していった。しかし日本人のリズム感は、根強い稲作(田植えの足運び、前へ後ろへ)の伝統から二拍子の繰り返しが主だった。風土とリズムは、稲作民族は「摺り足」、遊牧民族は「跳躍」、海洋民族は「揺れ」と其々の生活文化の中で育まれて来ている。
 それは、楽器にも表れ「ダルマシ-」・「チェンバロ」・「クラヴィコ-ド」と創意工夫の結晶が「楽器の王様」グランドピアノへと結晶。トランペットやフル-ト等も音の高さを調節する仕組みを工夫した産物である。
 以上、日本では渡来文化を積極的に摂取し、農耕の伝統がリズムを生み、音づくりに多様な工夫を凝らしたという。

 そして「余韻と響き」。日本人は、ひきずる様な余韻の音が心に響く。日本最古の大宰府・観世音寺に残る鐘楼をはじめ全国には国宝の鐘楼が14か所あるという。梵鐘の鐘の響きは余韻を残し広がっていく。彼の菅原道真は「都府の楼には わずかに瓦の色を看る 観音寺には ただ鐘の声のみ聴く」(大鏡・都府楼の鐘)と左遷された心情を詠んでいる。
 また、お馴染みミレ-の「晩鐘」。頭を垂れ合掌し、夕べの祈りを捧げる夫妻と思しき男女。地平線の右上にかすかに小さく見えるのは、スペイン・コルトバのサンフランシスコ教会。その鐘の音が一日の農作業のお終わりを告げたのだろう。(当時は教会の鐘の音の響く範囲が領主の土地だったそうだ)。また、レンブラントの「夜警」。日本では拍子木で火難・夜盗への注意を呼び掛けるが、太鼓で夜の街をパレ-ドする場面が描かれている。
 各民族は風土に従い音を創った。高温多湿の日本では、「没する音」。尺八の音には「無我の如く」没入し、感極まった感情が表出される。片や冷涼で乾燥したヨ-ロッパでは、フル-トの様に「顕わす音」で曲全体の流れを追うという。ところで、芭蕉の「古い池や蛙とびこむ水の音」。小泉八雲は「Old pond-frogs jumping in-sound of water」と訳しているが、日本人は「しじま」を聴いているのである。単一の音への没入、音の後の静けさ、余韻を心で受け止める。例えば実際に「音が無く」とも、小村雪岱(こむらせったい)作、「青柳」の絵を観れば「音」を感じることが出来るのだ。
 17世紀ヨーロッパでは弦楽器が普及した。特にヴァイオリンの名器「ストラディヴァリウス」や「グァルネリ-」は、今日でもその名が世界中に鳴り響いている。我が国では、正倉院に「紫檀木画僧槽琵琶(したんもくがのそうのびわ)」・「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)」など古代ペルシャの響きが眠っているが、楽器は家宝で、「神の声」を聴くものとして大切にされた。「三線(さんしん)」は天地人(宇宙)を現し、神の声を響かせ、「荒神琵琶」は竈神を祀るために弾奏。「薩摩琵琶」は大きなバチで怨霊を鎮めると。現代では、琵琶よりも「三味線」の音や響きの方が聴きなれているだろう。ところで、その三味線の「さわり」、弦の振動と共に発生するノイズのことだが、あのビーンと長く響く音が生む独特の間の余韻が日本人好みの工夫なのだという。また、「歌舞伎の音」も日本人ならではの感性を現している。雪の場面で太鼓が鈍く響く「ドン、ドン、ドン、ドン…」と降る雪を音で表現し、「勧進帳」では弁慶が踏む、六法の足音が弁慶の必死のエネルギ-(絶対に義経を守りたい気持ち)を象徴化している。

 最後に「音の詩 東西」。ドイツの「ハーメルンの笛吹き男」では「音の魔力」。イギリスの昔話「浮かれヴァイオリン」では「音の魅力」が表現されている。日本の昔話「聴き耳頭巾」では動物の声(音)が聞こえ、ドイツ・ライン川の魔女・ロ-レライとホメロスの「オッデセイア」に登場するサイレ-ンは「魅き付ける声」で船乗りを誘惑し、破滅へと導いたという。
 また、音の伝達は合図になる。「カリオン」はラテン語の“四個で一組”が語源だが、時刻を告げる教会や物見塔など鐘楼の大鐘が鳴るのを事前に知らせる「前打ち」として小さな鐘が沢山付いたもので「時刻」の合図だ。「狩り」の合図は角笛・ホルン、スイス等の山の住民が使うアルプホルンは「山」の合図に欠かせない。18~19世紀のヨ-ロッパでは郵便馬車の出発到着を知らせる「郵便ラッパ」を用いていた。今でもスウェ-デンの郵便局のロゴマークやドイツの郵便ポストには「郵便ラッパ」を図案化したマ-クが使われている。
 日本人は古来より「虫の声」は単なる音ではなく、虫=自然であり、その声=虫の生命であると聴く。「虫の宴と前裁(せんざい)」(葉月物語絵巻)や国宝彦根城「玄宮園で虫の音を聞く会」などは、正に季節の旬音を満喫する催事として現在に至っている。
 ルノア-ル、マネ、フェルメ-ル等の名画にも楽器は描かれ、洋楽を愛し、欧米を旅した竹下夢二は「セノオ楽譜」280点を描いた。音の仕掛けも様々だ。夏の風物詩「風鈴」、涼しい水音を愉しむ「水琴窟」、喜多川歌麿の「ポッペンを吹く女」等など。
 今は懐かしい「豆腐屋」のラッパ、開店セ-ルにチンドン屋、モンマルトルの手回しオルガンと街の音も様々だ。夜の街には夜泣き蕎麦屋のチャルメラ、温泉街には下駄の音。路上ライブは今の日本では珍しくないが、ベネチュアでは路上にグランドピアノを持ち出し、ロ-マではトランペットの演奏。夏のフィナ-レと来れば「花火大会」。日本人なら「花火大会」と聞けば、否応なく夜空に響く音・色・歓声が脳裏に湧き上がってくる。環境庁監修の日本の音ガイド「残したい日本の音風景100選」は心に残る音の心象風景をまとめたものだが、実に日本人ならではの企画だと思う。

 講演の閉めとして佐伯氏曰く、「目に見えないもの」を「合理主義」で切り捨ててきた流れに対し、神・人・自然(動・植・鉱)とのコミュニケ-ションを生活の中で育んできた先人達。その先人達が残した「古典芸能」の“形”は継承可能だが、“形”のない「生活の知恵」は継承しにくい、だから「国際交流が盛んになり日本文化の根っ子が見失われないために」と民俗学にこだわる理由を再度述べ一時間半の密度の濃い講演を終えた。
 次回のテーマは「旅する」。12月4日(日)同時刻・同会場でお会いしましょう。
(文責:原和彦)




2016.06.19
第23回 暮らしに息づく民俗学
「東洋と西洋 比べて語る『しぐさの民俗学』第2回「茶を喫(の)む」 


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 6月19日(日)父の日。新シリ-ズ第2回目の佐伯仁(13期)氏によるワンコイン講演会が鎌倉生涯学習センタ-で行われた。

 冒頭、佐伯氏は「東洋と西洋 比べて語る『しぐさの民俗学』シリ-ズ」で伝えたい事は「ますます国際化する我が国が日本文化の特異性を見失わぬために、似て非なる現象を比べて自国文化への深い認識を得て欲しい」。その手段として「風俗・習慣に息づく生活の知恵を探る民俗学を基本に、世界の諸民族の文化・社会を研究する民族学の考え方で追及していきたい」と講演趣旨を語った。前回で「そもそも、東洋と西洋の分岐点は何処なのか?それはシルクロ-ドの終着点・イスタンブール、ボスポラス海峡で東西は分かれる」の説明は、今回初参加の方々への配慮なのだろう。そして、今回第二弾のテ-マは「茶を喫(の)む」である。

最初に「茶のはじまり」。

  茶の始まりは中国。古代中国(紀元前2700年頃)医薬・農耕の神「神農(しんのう)」は自らが毒にあたった際、毒消しのために白湯に茶葉を入れて飲み、癒したと陸羽の茶経(760年出版)に記されている。日本での始まりは遣唐使により伝来し、天平元年(729年)45代の聖武天皇が僧百人に茶を贈ったという記述がある。また、「喫茶養生記」を著した臨済宗の開祖、栄西禅師は宋での禅寺修行で睡魔撃退の茶法「抹茶の法」を体験し、茶木の栽培を奨励したという。

 安土桃山時代、ポルトガルやスペインの商人は南蛮貿易で戦国大名へ接近、「茶」を知り親しんだ。また、戦国大名も南蛮人(商人・宣教師)から世界の知識を吸収。そして、大航海時代の100年間で日本茶を最初に西欧に運んだのはオランダ人らしい。

 1610年、オランダ東インド会社は平戸からジャワのバンタムを経てヨ-ロッパへ初めて「緑茶」を輸出したという。余談だが、「ユニオンジャックの旗の靡く所、日の没する所なし」と言われた、あの大英帝国が1598年頃に初めて「茶」の存在を知ったというから驚きだ。イギリスは平戸で商館を築いていたが、鎖国政策で32年間の貿易拠点を閉鎖。唯でさえアジア貿易に後れを取っていたイギリスは、1665年に中国の廈門(あもい)に貿易拠点を築き、イギリス東インド会社を設立。福建語の「Tay(テイ)」を英語よみの「Tea(ティ)」に変化させたという。

 次に「緑茶と紅茶」。

 鎌倉期「茶」は、貴族の嗜好品から眠気覚ましの妙薬として普及。室町期には集いの場、連歌の会所で飲食用に「茶」は振る舞われるようになったが、南北朝を生き抜いた婆娑羅(バサラ)大名の代表と言われた佐々木道誉などは、礼式や伝統の権威的「闘茶」を自由狼藉な振る舞いで、これを否定したという。

 現在に繋がる日本文化の原点である「草庵茶室」の源流は東山文化サロンで芽生えたらしい。「茶を点てる」・「和敬清寂」・「一座建立」・「一期一会」、等々所謂「座の文芸」である。僅か二畳、侘びの極致(否定の茶道)「待庵」と栄華の極致(誇示の茶道)「金の茶室」。村田珠光・武野紹鴎・千利休へと形式より精神性を尊び、桃山時代の豪奢を否定した。つまり、求めたのは「無一物」の世界観であり権威からの独立だった。「侘び茶」の祖(茶聖)利休は「侘び茶」の心入れとして「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」(新古今和歌集363藤原定家)を引用し、数寄の心で高麗物の茶道具を好んだ。また、煎茶の祖(茶神)売茶翁(ばいちゃおう)は上流階級の文化だった喫茶の風習を多くの庶民に広めることに努めた。

 その頃、英国では宮廷喫茶が広まり、「茶」は「嗜好品」として定着し、貴族に「緑茶」が愛飲され始めた。当時ロンドンではコ-ヒ-ハウスが3000軒もあり、庶民(男性主導)はコーヒ-を飲んでいたが、コーヒ-ハウスでも「茶」の宣伝広告が盛んに行われるようになった。

 緑茶用の茶葉は、温帯育ちの一芯二葉の小型茶葉で苦い味わいのため、メアリ王妃は「緑茶にミルクを入れたミルクティ-」で宮廷ティ-パ-ティを開いた。因みに紅茶用の茶葉は、熱帯産の大きな葉で苦味はなく渋みがある。中国からインドへの輸入先の変更で「紅茶」が主流となっていった。更にアン王女の即位記念に宮廷に隣接してティ-サロンが設置されたりで、東洋文化へのコンプレックスも影響し、「コ-ヒ-ハウス」から「ティ-ガ-デン」へと女性主導で「茶」は庶民へと急速に広まっていったらしい。

 そして「作法とマナ-」。

 「茶礼」は僧侶の礼法である「清規(しんぎ)」が基だという。「清規」とは、禅寺で僧侶が日常生活で従うべき規律のことだ。曹洞宗の開祖・道元禅師が南宋より日本に伝えたとされる「禅寺茶礼」が「茶の作法」の始まりだ。現在でも、京都の無形文化財として有名な建仁寺の「四ッ頭茶礼」は、廃れていた喫茶の習慣を再興した栄西禅師の誕生祝いとして行われているし、奈良西大寺の鎌倉期より続く宗教的茶儀「大茶盛(おおちゃもり)」は、正月の参拝御礼として薬効ある「茶」を民衆救済の一貫として振る舞ったことから、初釜で皆と福を分け合うために大茶碗にお茶を点て、参加者で回し飲みするのは、正に「一味和合」の表出だろう。

 「オランダ式の喫茶マナ-」は、熱い茶を冷ますために受け皿に移し飲んだ。小さめのカップは茶が薬として扱われていた名残りらしい。1701年にアムステルダムで上演された「ティ-にいかれた貴婦人たち」では、「招いた女性たちへの女主人の挨拶、小さな茶器から茶を取りだす儀式、茶を受け皿に移し、音をたてて啜る」これが、異国風喫茶であるとティ-パ-ティ-の様子をパロディ-的に描かれている。多分に「茶」の異文化への憧れとコンプレックスがあり、征服者の優越感も窺えるという。

 最後は「一碗一服」。

 「茶」に絡む世界史上、有名な2つの戦争があるという。一つ目は「ボストン茶会事件」(1773年)だ。イギリスの「茶」への不当な関税に抗議したアメリカは、イギリスからの独立戦争への引き金になっていった。二つ目は「阿片戦争」(1840年)。イギリスは中国からの「茶」の大量輸入の赤字収支に対して、インドで強制的に栽培させたアヘンを密輸入する事で収支バランスを図ろうとした。しかし、中国ではアヘン吸引の悪弊が広まり健康を害する者が多くなり、風紀も退廃。更に、アヘンの代金決済を銀で支払っていたため貿易収支が逆転。怒った中国は武力で解決を図ろうとし戦争へと突入した。
 18世紀後半から、イギリスは「産業革命」で農村が疲弊し、都市へ人口が過剰流入。街中に溢れる飲んだくれた人々に1830年頃の「酒より茶」(絶対禁酒運動)、酒の代替として「紅茶」を奨励したため「紅茶」は広まっていったそうだ。

 1849年当時、英国東インド会社の代表としてプラントハンタ-、ロバ-ト・フォ-チュンは中国(福建省)武夷山で入手した茶の苗木をインドのタ-ジリンへ職人と共に送り込み生産を開始、タ-ジリンティの基礎を築き、紅茶の国民的飲料の端緒を開いた。

 一方、イギリスは「阿片戦争」後の優位な立場で中国に対し、予てより希求していた英国の硬水でも味が抽出される発酵度の強い「茶」の生産を強く要求。こういった時代背景の中で「政和工夫紅茶」が発展し、本格的な「紅茶」の生産となっていく。それは、1840年頃から貴族階級の間ではじまった「午後のお茶(アフタ-ヌ-ンティ)」習慣の影響が大きいのではないだろうか。(アフタ-ヌ-ンティは、宮廷での夕食が21時頃と遅いため、空腹を避けるために始まった習慣だという。)

 因みにベッドフォ-ド公爵家のカントリ-ハウス「ウ-バンアビ-」の館では、「大きな鏡、贅沢な花、床にム-トン、豪華なカップでいただくお茶を愉しみ、おしゃべりの華が咲き、社交ム-ドは最高潮だった」らしい。何と一年で1万2千人が招待されたという記録が残っている。余談だが現代でも、夕食前の喫茶習慣(アフタ-ヌ-ンティ)には「紅茶」に「スコ-ン」が定番。「スコ-ン」はスコットランドの古城「スク-ン宮殿」に名前も形も由来し、歴代の王は、この玉座の石に腰掛け戴冠した縁起の良い形を模しているという。

 ところで、先人達は東西を問わず一刻も早く「お茶」を届けたかったらしい。高速運搬船「ティ-クリッパ-」は中国からイギリスへ茶を運ぶ時間が短い程、高値で売れるために造られた大型帆船だ。因みにイギリスのテイ-クリッパ-を「カティ-サ-ク」というが、スエズ運河の完成後は活躍の場を失ってしまった。

 日本でも一刻も早く、京都の宇治から江戸の将軍家に献上するための茶壺を運ぶ行列を制度化していた。これを「お茶壺道中」という。

 また、西も東も庶民は路傍で一服一銭の茶を喫んだ。ロンドン市街地でのティ-タイム風景の画が残っている。日本では14世紀に移動茶屋の絵巻「七十一番職人歌合せ絵巻」で確認出来る。
 1873年、ジェ-ムズ・テ-ラ-(セイロン紅茶の神様)の手によってインド・アッサムの茶樹がセイロンに移植され、イギリスは中国に頼らずに紅茶の生産を確立し、世界に冠たる「紅茶王国」となって行くのである。

 さて、野外での「お茶」愉しみ方は、東西の文化の違いを感じさせる。「野点」は周囲の景色に目を奪われずに「茶の心」に集中し、「茶礼・茶道」の場として悠久に探究。西洋はイチゴ狩り等の後のくつろぎで「野外ティ-タイム」を愉しんでいる。つまり、「社交・憩い」の場として一刻を満喫しているのだ。

 1859年「日本茶」は、横浜開港を機に米国に輸出された。浮世絵の技を生かした色鮮やかな木版刷りの「FUKUSUKE JAPAN TEA」のラベルがフリュ-ゲル博物館に所蔵されている。また1887年、我が国の「紅茶」の輸入は100㎏を初輸入したという記録が残っている。

 和製「紅茶」の発祥は1875年、熊本県山鹿市の岳間温泉を活用した官営による初の紅茶の生産は始まった。また1881年、徳川慶喜公は明治政府が払い下げた、静岡県掛川市の丸山茶園で紅茶生産を始めた。因って、熊本と静岡は「和製紅茶」の発祥の地なのだという。

 2013年「和食」が世界遺産に登録された。和食に「日本茶」は欠かせない。従って、和食と共に「日本茶」は国際ブランドになったと言えるのではないだろうか。

 最後に、佐伯氏は「戦後、日本人は『目に見えないもの』を『合理主義』で切り捨て、神・人・自然(動・植・鉱)とのコミュニケ-ションを疎かにしてきた。国際交流が盛んになった今だからこそ、日本文化の根っ子が見失われてしまわないために『比較文化人類学』にこだわり、このような話を続けているのです。真の国際人とは語学堪能者をいうのではなく、自国文化への深い蓄積を持つ人物。各民族の違いを認め、伝えるべきは伝え、学ぶべきは学ぶ謙虚さと基本姿勢こそ、国際社会に生きる姿勢ではないか」と正に「父の日」相応しい講演の主旨を語り、午前10時から一時間半の濃密な時間を締めくくった。決して上から目線ではなく、押し付けでもなく、我々の遺伝子に宿っているであろう日本人の原点。その気づきを誘発させるようなスライド多用、軽妙洒脱な語り口は、佐伯氏の人柄を物語っていると感じるのは私だけだろうか。

 次回、9月11日(日)同時刻・同場所にて開催。テーマは『奏でる』。間の日本/リズムの西洋/風土の音や人工の音/感性で磨き上げた東西の“耳と心”を追う。百聞は一見也。

(文責:同窓会専務理事 原和彦)




2016.04.29
第22回 暮らしに息づく民俗学
「東洋と西洋 比べて語る『しぐさの民俗学』第1回「笑う」 


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4月 29 日「昭和の日」。民俗学研究家 佐伯仁(13 期)氏の新シリ-ズの講演会「東洋と西洋 比べて語る『しぐさの民俗学』」が第 1 回「笑う」と題し、恒例の鎌倉生涯学習センタ-で行われた。それは「日本文化の国際化に伴い、その特異性を似て非なる現象と比べ、自国の文化の深い認識を得るため」の新企画だ。旧シリ-ズ同様の 4 部構成スライド多用、軽妙洒脱なト-クは変わらないものの、何といっても東西の比較である情報量が倍増。そもそも東西の分岐点はどこか?それはボスポラス海峡であり、イスタンブ-ルだという。

1.「愉しむ笑い」

 我が国の最初の「笑い」はアメノウズメの命の踊りから始まり、古墳時代六世紀後半の「笑う埴輪」は「笑い」を死から生へのシンボルとして具現化したものだ。「笑う」の字源は「草+夭」で「咲」(えむ・ほほえむ)ともいう。
 西洋ではアフロディテ(善なるもの)「笑いを好む女神」。演劇の神ディオニュソスの祭り「コモディア」はコ メディの語源。古代ギリシャの喜劇・風刺詩人アリストパネス、17 世紀フランス古典喜劇王モリエ-ルの作品「いやいやながら医者にされ」を「恋の病」に「守銭奴」を「夏小袖」に尾崎紅葉が翻訳し明治25年に発表。 日本喜劇は狂言「月見座頭」や「花子」で心の醜さを風刺、傲慢な狡さを笑う。
太郎冠者の「止動方角」は狂言の名曲として名高いが、西洋ではオペラから笑いの要素を強調したオペレッタ(喜歌劇)「こうもり」が対比される。歌舞伎のおどけもの「猿若」との対比はピエロ(道化師)・ジョ-カ-(宮 廷道化師)・クラウン(サーカスの道化師)・権力に屈しない気概の象徴がチェコ人形劇のマリオネットだ。イタ リアでは 16 世紀中頃に即興性のある仮面喜劇「コメディア・デッラルテ」が誕生。間抜けで哀愁に満ち、ロマ ンチストがピエロの原型だが、そのピエロ芸術はフランスのパントマイムの第一人者マルセル・マルソ-やジャ ン・ルイ・バロ-によって昇華されたという。
武士は「片頬三年 笑い過ぎたるは良からず」を信条とし、英国紳士はスピ-チに必ずユーモアを入れること が嗜みなのだ。その気風はコメディ界のビートルズと言われるモンティー・パイソンに脈々と生き続けている。ウ ィットは皮肉・風刺を巧妙に短評するが「金銀のなくてつまらぬ年の暮 何と将棋のあたまかく飛車」と詠んだ 蜀山人の狂句は実にウイットに富んでいる。「笑い」は命を甦らせる。東西、様々な工夫がなされ時代の新旧はな いと言える。

2.「刺す笑い」

 西洋は意志派。ジョナサン・スウィフトは小説「ガリバ-旅行記」で英国を嘲笑し、喜劇王チャップリンは映画「独裁者」でコミカルな動きや笑いで涙のドタバタ劇を演出し、笑いの力で反戦を表現した。ジョ-ジ・バー ナ-ド・ショウの戯曲「ピグマリオン」、その原作を基に舞台ミュ-ジカルとなり映画化もされた「マイ・フェ ア・レディ」では言語学者をして、当時の英国における厳密な階級社会を風刺。ブリュ-ゲルの絵画「ネーデルランドの諺」は当時の人々の生活を舞台に、80 種類以上の諺・格言を皮肉と風刺満載で作品に描き込んでいる。
 一方、我が国は情緒派だ。大伴家持が友人を揶揄った「土用の丑は鰻」、万葉の戯笑歌や古今和歌集の俳諧歌。また、最高傑作と言われる二条河原の落書「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動…」 や老中・田沼意次の悪政に対し、松平定信(白河藩主 吉宗の孫)政治への期待を込めた落首「田や沼やよごれた御世を改めて清くぞすめる白河の水」と、そして落胆の落首「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」等々、情緒的に時の政治・ 社会を批判、風刺したものだ。松尾芭蕉、柄井川柳、大田南畝(別号:蜀山人)等、連歌・俳諧・川柳・狂歌は 風雅から面白、可笑しいもの、ユーモアと反骨、洒落と滑稽、機知と頓智へと昇華された。

3.「遊び心で笑う」

「笑い」と言えば「漫画」。漫画のル-ツは「鳥獣人物戯画」800 年前の世相風刺画だ。江戸期の漫画の元祖は フランス印象派(モネ・ゴーギャン・ゴッホ)に影響を与えた歌川国芳、"漫然"と描いた葛飾北斎の北斎漫画。 明治日本の近代漫画黎明期に来日した英国人チャ-ルズ・ワーグマンと仏人ジョルジュ・ビゴ-は風刺や寓意を込めた「ポンチ絵」のもととなった日本最初の漫画雑誌「ジャパン・パンチ」を創刊。更に親日派で風刺画家の ビゴ-は漫画雑誌「トバエ」をも創刊。彼は在日 17 年間、当時の世相を伝える多くの絵を残した。
18 世紀のドイツの貴族ミュンヒハウゼン男爵カール・フリ-ドリヒ・ヒエロニュムスの奇想天外な物語として 知られる『ほら吹き男爵物語』と廣田吉右衛門がモデルとされる、とんち話『吉四六話』。そして西洋の落語とも言われる滑稽談「ファブリオ-」と「圓生滑稽談」等はシンクロの不思議を実感する。

4.「日本の笑い」

「ジャパニ-ズ・スマイル」は、柳田国男の「不幸なる芸術・笑いの本願」、小泉八雲の「日本人の微笑の謎を 解く」やルース・ベネディクトの「菊と刀」で評される西洋人には理解しがたい謎の微笑だ。だが、日本人には 解る。「顔で笑って心で泣いて」いるのだ。失敗・バツの悪さを隠すニヤニヤ笑い、気づまりを誤魔化す“間”づく りの笑いだ。エスキモ-が笑いを絶やさないのは良好なコミュニケ-ション構築のためだと言う。
東洋の美しき微笑に類似するアルカイック・スマイル(古代ギリシャの口元の微笑)は生命感と幸福感で邪気 を祓う。「モナリザの微笑」だけでなくレンブラントの「笑う自画像」も、その意識と同質のものであろう。
ところで、狂言の「笑い」は芸術の形の一つとなり、小劇場・大舞台から庶民へ「笑い」を贈るようになり、 バスタ-・キートン、ハロルド・ロイド、榎本健一(エノケン)等、日米の喜劇王が誕生する。
江戸期の滑稽本「東海道中膝栗毛」の十返舎一九は「この世をば どりゃお暇に 線香の煙とともに灰左様なら」と実に粋な辞 世の句を詠んだ。粋人の話芸と言えば「落語」。上方落語の中興の祖は桂米朝で江戸落語は古今亭志ん生の名が浮 かぶ。
粋ついでに祝言を述べる「萬歳」が「漫才」へ、笑って歳を迎えようと言うことになった。因みに、正月 の羽根突きは本来、羽根の玉(無患子:子が患わない)をつく音で邪気を祓う意味で羽子板は無病息災のお守り となったし、雛人形の「三人仕丁」は三人上戸と言い、泣き顔・笑い顔・怒り顔で喜怒哀楽を表している。そこ には、先人の「笑い」の力に込めた強い想いが具現化しているのである。
近年では「笑育」という言葉が大阪の学校現場で生まれた。流石は商人の街ならではの気風である。また、現代アメリカの若い勇気ある医師たちが「笑い」を医療現場に持ち込んでいる。

今回のまとめとして以下の表をご参考願いたい。

比較のチェックポイント        日  本  |  西  洋
   気   候           多  湿  |  乾  燥
     食             稲  作  |  牧  畜
     住             木  造  |  石  造
     神             多神教   |  一神教
   笑いの原点            自然従属 |  人間優先
   笑いの精神     情緒的批判 愉快な落語 | 自己主張・知的風刺

「笑い」はエネルギ-。「笑い」は人を結ぶ絆となり時には武器にもなってきた。そのパワ-と愉しんできた足取 りを東西に探った 1 時間半の濃密な旅だった。新シリ-ズ第 2 回は「茶を喫(の)む」と題して、6 月 19 日(日) 午前 10 時から同会場で行われる。



2015.11.22
第21回 暮らしに息づく民俗学 


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▲画像提供:中島 明道氏


  去る11月22日(日)鎌倉生涯学習センタ-午前10時。民俗学研究家、佐伯仁(13期)氏の「第21回暮らしに息づく民俗学」の講演会。今回は「和紙の力」~ユネスコ無形文化遺産に認定されて~とスライド77枚の四部構成、格調高く万葉集から御製歌を枕に始まった。「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」(持統天皇)以下。

1. 神の依代=白い紙
 紙は中国後漢の宦官・蔡倫が創った。わが国へは1500年~1300年位前に、仏教とともに渡来。京都に官立の製紙加工所「紙屋院(かんやいん)」が造られ、唐の紙より国産の紙屋院の紙が良いと紫式部は和紙に「源氏物語」を書き、清少納言は「陸奥紙(みちのくのかみ)」を愛した。また、「紙」は「神」に通じ、白色への信仰は清廉無垢な白色を神聖視し、御幣(ごへい)の紙(し)垂(で)を神の力が宿るものとし崇め敬う心を白に託したのだという。

2. 三大和紙 世界遺産へ
 三大とは「石州(せきしゅう)半紙(ばんし)」・「本美濃紙(ほんみのし)」・「細川紙(ほそかわし)」をいう。では、なぜ三ヶ所だけが世界遺産に登録されたのか?それは、国産の“楮(こうぞ)”のみを原料として伝統技法の手漉きで作成されたもので、日本独特の多湿な「風土」が「技」を育てた。例えば、風土の恵みの楮に軟水とネリ(トロロアオイの根っ子から粘液を採る)や白粘土等を加えて工夫。人間国宝、岩野(いわの)市(いち)兵衛(べえ)(8代目)氏の「越前奉書」、安部栄四郎(あべえいしろう)氏の民芸和紙「雁皮紙(がんぴし)」、浜田(はまだ)幸雄(さぢお)氏の「土佐典具帖紙(どさてんぐじょうし)」(かげろうの羽)は、テッシュペ-パ-の1/6、厚さ0.02m、1㎡が2gで美術品の修復に使われている。そんな和紙を海外のア-ティストは絶賛し続けている。因みに明治7年、渋沢栄一は製紙会社(後の王子製紙)を設立し、日本の「洋紙」は生まれたが、和紙は人智の極みであり “洋紙は百年 和紙は千年”生きると言われている。

3. 和紙いろいろ
 東大寺献物帖の「国家珍寶帖(こっかちんぽうちょう)」、正倉院の宝物「鳥(とり)毛(げ)立女(りつじょの)屏風(びょうぶ)絵(え)」、色麻紙(いろあさがみ)19巻も和紙の産物だが、称徳天皇は“諸悪”の祓いに陀羅尼100万巻印刷し、小型の塔に納めて10万基ずつ10大寺に奉納(「百万塔(ひゃくまんとう)陀羅尼(だらに)」)。更に和紙は商いの要の「大福帳」や祝儀の包みに応用され紙の持つ霊を礼に掛けて祝の心を表現。また、ブランド和紙の杉(すぎ)原紙(はらがみ)(兵庫)や打(うち)雲紙(ぐもがみ)、柿渋を加えて和紙の強度を増し、自然の恵みの楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)を流し漉きの技で強靭な風合へ。文字を書くための紙が日用小物や衣・住などの工芸品へと昇華した。

4. 和紙の美学
 日本人の感性の繊細さは、「陰翳(いんえい)礼讃(らいさん)」の美意識を生んだ。燦燦とした外部の陽光を柔和な光へ、和紙の底力は京都迎賓館で遺憾なく発揮されている。藤の間や回廊には5,000枚の和紙、天井全面にも使用。版木で雲母を作り、襖や天井に文様を施した京唐紙文様は、貴族の贅沢だった。江戸期に人気の「巻紙」、観世(かんぜ)細工に蛇の目傘、松江名物、鱸の奉書焼や力士の元結、花札、安産のお守り犬張子、折鶴等々、紙細工は和紙の優しさと人の温もりだ。明治18年の海外向け「縮緬(ちりめん)本」は、縮緬加工した和紙に木版印刷。和紙を絶賛したピカソ、レイ・ブランドやクロ-ド・モネは自らの作品表現にも和紙を使用している。
 佐伯氏は全体のまとめとして「和紙は物でなく心の源流、自然の賜物を技で極め、世界が認めた二千年の日本文化の底力」だと締めくくった。次回は3月、2016年新シリ-ズ「東洋と西洋の比較で語るしぐさの民俗学」をテーマに「笑う」のお題で、似て非なるものを語るという。
(文責 原和彦)



2015.07.12
第20回 暮らしに息づく民俗学 


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▲画像提供:中島 明道氏


 五月晴れの7月12日(日)午前10時、古都鎌倉の文化センタ-。このホ-ムペ-ジを御覧の皆様には、お馴染みの佐伯仁(13期)氏による「暮らしに息づく民俗学」の講演会が行われた。20回目となる今回のお題は「富士を仰ぐ」だった。
 切り出しは「信仰の霊山」。自然崇拝の典型「富士山」は、「信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に認定された。本宮は「浅間神社」で、因みに「あさま」とはアイヌの古語で「活火山」という意味。富士山の「山開き」は7月1日(吉田口)、「山じまい」は9月10日(須走口)だ。山頂は「浄土」として、浅間神社への参詣「富士詣」の歴史は江戸時代に盛んになった。白装束に鈴、金剛杖を持ち「六根清浄」(ろっこんしょうじょう=五感+心の煩悩を断ち切るという意味)と唱えながら先達に伴われての集団登山。余談だが「六根清浄」が訛って「どっこいしょ」に成った。つまり、「自然崇拝が高山への畏れを生み、遥か山頂に神仏を据え仰ぎ、秀麗な姿に浄め祓いを託した」のだと言う。
 次に「火を噴く富士」。307年前、噴火により富士山最大の側火山「宝永山」が誕生(1707年「宝永大噴火」)。富士山は今でも「活火山」であり、平安の昔からの記録(864年「貞観大噴火」)が物語っている。 
 更に「庶民の富士」。江戸時代の絵師たちは、秀麗な富士山を背景に入れることで全体としての構図が実に引き立つことを知り多用した。また、「富士講八百八講」は山岳信仰による女人禁制をしない、結社のためにも女性を入れたので信者層拡大になったのだと言う。
 そして庶民の知恵は、実際に「富士詣」に行けない老人、女子供のために「富士塚」を築かせた。「富士塚」とは富士山の溶岩で作った「ミニ富士山」で、現在でも都内に55ヶ所(池袋富士・駒込富士など)もある。それを我らが「お富士さん」と呼び、身近に富士山“霊力”のご利益を仰いでいるのだそうだ。
 最後に「富士の美学」。富士を描いた世界的巨匠と言えば、葛飾北斎(「富獄三十六景」)と歌川広重(「富士三十六景」)だろう。北斎の画風は「ベロ藍・デフォルメ・動き・荒事」、広重のは「淡い青・写実・静止鳥瞰・和事」が特徴だ。90歳で大往生した北斎の「山下白雨」(俗称:黒富士)と「凱風快晴」(俗称:赤富士)には、共に人物も地名も描かれていない。当時の浮世絵では極めて異例、謎なのだ。佐伯氏は「ゴッホのひまわり」や「セザンヌの聖ヴィクトワ-ル山」と同様に、北斎の自画像なのではないかと言う。
 ところで、「なぜ銭湯には富士山の絵が描かれているのだろうか?」。この絵を良く見ると必ず、富士山に付随して池があり、富士山の清水が池に溜まり、池から銭湯の湯船に流れ込んでいる様に描かれている。つまり、富士山の「霊水」で身を浄める“湯”という粋な拵えなのだ。
 “全体のまとめ” として佐伯氏は言う。先人達の「富士山」に対する想いは「秀麗な姿に浄め祓いを託し、親近感が信仰心を上回った、万人が仰ぐ霊山=日本の象徴」、それが「富士山」なのである、と今回の講演を締めくくった。
 次回は11月頃。「和紙の力」と題し、無形文化遺産に登録された「和紙」を取り上げる。例によってスライド多用の95分間の講演は飽きない。佐伯氏のリズミカルでテンポの良い語り口に時間の過ぎるのを忘れる。是非一度あなたも体験して頂きたく思う。そこには、日本人の「心の原点」がある。あなたは、改めて「大和魂の根源」に気づくだろう。

 (文責:原和彦)


2015.06.06
一般社団法人 法政大学校友会入会のご案内
【法政大学校友会とは】
 一般社団法人法政大学校友会(以下、法政大学校友会)は、学校法人法政大学が設置する学校の卒業生及び教職員(就任2年以上)の会員をもって組織されています。
 法政大学校友会は、付属校同窓会のほか、全国各地の地域支部、学部同窓会、職域やサークル関係の卒業生団体と、個人加入の会員により構成されています。
 これに加えて2014年3月以降の卒業生は、卒業年度ごとに原則一斉加入する「年度同期会」を通じて法政大学校友会に参加することになっています。
 法政大学校友会は世代、性別、出身地などの違いを超えて、「法政」の名のもとに集い、卒業後も「法政の一員でありつづけること」が実感できる場所です。
 このような「すべての卒業生にとって魅力的な法政ネットワークを構築するためにも、法政大学校友会の構成団体である法政大学第二高等学校同窓会(以下、母校同窓会)の会員の皆様にも一層のご理解とご協力のほどお願いいたします。

【代表議員について】
 法政大学校友会の意思決機関である総会における議決権の行使は、母校同窓会をはじめとする各構成団体から「正会員40人に1名の割合」選出された代表議員を通じて行使することとされております(定款第8条)。
 そのため、法政大学校友会において母校同窓会として名誉ある存在となるためには、最低40人の正会員がいないと総会における議決権の行使すらできません。


【入会のご案内】
 母校同窓会においては、このような法政大学校友会の活動に積極的に関与していく必要があると認識しておりますので、一人でも多くの母校同窓会会員の皆様にご入会いただき、総会においても母校同窓会としての意思を表明できる存在にならなければなりません。

【入会手続きについて】
 法政大学校友会に加入するためには、入会時に3万円の終身会費を納入する必要があります。これは、過去に任意団体であった法政大学校友連合会に加入し、会費を納入していた方も同様です。
 今回、母校同窓会では、このような法政大学校友会の活動に賛同し、構成団体である母校同窓会会員として総会における議決権を行使できる代表議員を選出することに同意していただける会員の方について母校同窓会事務局を通じて入会の手続きを代行することとしました。
 詳しいことについては、お気軽に下記の事務局までお問い合わせ下さい。

【問い合わせ先】
 法政大学第二高等学校同窓会事務局
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  • 2015.05.17

第19回 暮らしに息づく民俗学 

 晴天の5月17日(日)鎌倉生涯学習センタ-。佐伯仁(13期)氏の「第19回暮らしに息づく民俗学」の講演会が、定刻の午前10時から始まった。今回も軽妙洒脱なト-クにスライド多用の佐伯スタイルでスタ-ト。お題は「風に舞う」(日々を彩る風)である。

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▲画像提供:中島 明道氏

 最初は「風に祈る」。万葉集には「風」を詠った歌が300首あり、その内「秋風」が一番多く70首という。京都、今宮神社の“安良居祭”や奈良、龍田大社の“風鎮め祭り”。法隆寺の相輪に付けられた“風きり鎌”。砺波散居村の“屋敷林”、南砺市八乙女山の“風神堂祭典”、越中おわらの“風の盆”は二百十日の風鎮めと御霊を迎える。無形文化財となった岩手県釜石市の “虎舞”も同様。虎は“風神”、龍は“雨神”で「龍は雲に従い、虎は風に従う」と言うのだそうだ。更に波の“静”を祈る“波兎(なみうさぎ)凧”は沖の白波を「兎が跳ぶ」と呼び、時化の前兆として畏れた漁師たちが、古来より白い動物は神の化身、予言など超能力を持つと信じられていた“白兎”にあやかったのだろう。“色”ついでに余談だが、青鬼は“風神”、赤鬼は“雷神”で “風神雷神”と来れば、俵屋宗達の「風神雷神屏風図」が想起される。因みに“浅草雷門”の正式名称は「風神雷神門」という。先人達は千変万化な風の動きに、風を畏れ神と仰ぎ祭り、風の鎮めを祈り、その工夫を尽くした。
 次に「季(とき)の風」。春は“疾風(はやち)”、夏は“南風(はえ)”、秋は“野分(のわけ:台風)”。因みに“颱風”は気象学者の岡田武松博士が“タイフ-ン”に当てた造語。そして冬の烈風、“虎落笛(もがりぶえ)”は冬の季語。秋田仙北の紙風船上げ“雪ほたる”は2月の風物詩だ。万葉集に気象に因む歌が846首もあるというが、四季折々に吹く多彩な風が日々の暮らしに与えた影響は、古人たちへ自然への心象を重ねさせたのだろう。
 更に「俗(ひと)の風」。風に因む俚諺に「西風と夫婦喧嘩は夕かぎり」がある。また風は“鳳凰”の象形文字。風の付く漢字は“風俗”、“風土”、“風格”、等々248字以上在る。“風流”とは京都町衆の経済力が生んだ精神的な支柱を表す言葉で“侘び寂び”と対峙する美意識だという。“風狂の人”松尾芭蕉は、“風になる美学”を貫き生涯を終えた。“狂”とは最高の賛辞である。また、風の利用は戦場の“矢母衣(やほろ)”、“千石船”、“北前船”、“帆引き舟”、さらに四季の風を家の中に通すための“坪庭”等々。ご先祖方は、“風流”を美意識の柱に、“風狂”を潔さの象徴とし、風の恵みを日々に生かしたようだ。
 最後に「風の美学」。魔除けの“風鐸”に極楽の“風鈴”、 “吊り忍”に“江戸風鈴”、“火箸風鈴”とその音は涼風である。お江戸の蕎麦屋は売り声の代わりに風鈴を使い、昭和の初めには風鈴売りが町を歩き、現在、全国最大規模の「川崎大師風鈴市」も夏の風物詩として大盛況だ。また、クロ-ド・モネの傑作「ラ・ジャポネ-ズ」では団扇が舞い、芹沢銈介の型絵染「風の文字のれん」は藍の濃淡に風のスピ-ド感が爽やかだ。人々は、風を色形、季節感と共に把握し、微細なゆれを育み愉しみ、四季の風の活きた表情を描写したのだろう。
 フィトンチッドたっぷりの薫風爽やかな約90分の講演は、主催者「NPO自然環境と人間生活を考える会」代表の渡邊さんの閉めの言葉で幕を閉じた。因みに後援は鎌倉市。
次回7月12日(日)「富士を仰ぐ」と題し、同会場同時刻で開催、乞うご期待!

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▲画像提供:中島 明道氏

文責:原 和彦(35期)


  • 2015.01.30

 鎌倉学習センターでの民俗学講座について

   4年前から年4回ほど「暮らしに息づく民俗学」をタイトルに掲げ、身近な事象を選び、映像を交え日本人の知恵の足跡を追い、講演を行ってきた。去る1月24日は節分を前に「鬼」をテーマにした。悪しき鬼、恐ろしき鬼など忌み嫌われる鬼は、いつ、どこで、どう発生したのか?鬼の字源を中国の辞典に確かめ、同時に我が国の古文献に鬼はどう記載されているのか?祟る鬼神の代表は菅原道真だが、鬼への畏敬の念が鬼を神と仰ぐ信仰を生んできた過程にも言及・・・とくに先人が残した数々の絵巻物の見事さに舌を巻く一方、世界に誇る「風神・雷神」の彫刻・屏風絵に想像力の豊かさに圧倒される。

そして酒呑童子の伝説を探るとき、日本人の愛着の一端が窺える。それは酒呑童子退治へ向かった源頼光および四天王に対し、毒酒を呑まされ騙し討ちされた酒呑童子が激しく罵った言葉ー「鬼に横道(おうどう)なし」に顕著に表れている。たしかに都に住めず、偽政者にまつろわぬ故に疎外された存在は哀れだが、俗塵に交わらず山中で鬼仲間とネットワークを敷いた生活の方がさぞ快適であったであろう。酒呑童子の言葉「鬼にはよこしまな心はない」と叫び、頼光のカブトに食らい付いた心意気は見事でで、その形相は鮮烈だ。

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当時、ビデオテープも監視カメラもない時代に、その言葉が残っているわけではない。これは厚生の絵師や説話作者が書き添えたにちがいないが、混沌とした平安期にあってこの一言は、鬼の清新な心を伝え、鬼として生きることへの誇りと美学さえ感じさせる。

一方、「節分」にやって来る鬼を春の使者、福神(東北のナマハゲも善神)と有難がってきた日本人の鬼へ託した心情を、能・狂言の舞台に求め、さらに「なぜ豆なのか」にもふれた。豆は神への捧げものを供える祭器を表した象形文字「禮」に由来している事も分かった。この字の中に「豆」がある。これでハッキリした、豆は聖なる穀物だったのだ、と。

節分の際、何気なく撒く豆にも「神事としての精神」がいきづいていることを伝えられた事は大きい。なかでもハイライトは『祭り」には必ず鬼と子供と太鼓が登場する。この場合の鬼は「超能力者」、子供は祇園祭りの稚児にみられるように「神の化身」、太鼓は景気づけに叩くのではなく、豊作や疫病退散を願う心を「音」に託し天の神へ伝える「コミニュケーションツール」だ。これも身近すぎ見過ごしがちの現象だがきちんとした理由づけがあり伝承されてきたのだ。ここには騒ぐだけではない日本の「祭り」の実像がハッキリ把握できる。これを見逃してはならない。いずれにしても本来、目に見えない「想像上の鬼」がどの地方にいっても今なお多様な姿・形えお整え、人々の暮らしのなかに生き生きと存在感を示している事からしても鬼は永久に不滅といえよう。

 昨今、外国人観光客が急増している。名所観光の他に買い物ツアーも人気だ。円安の影響もあるだろうが、ユネスコが製糸場や富士山、和紙、和食などを立て続けに文化遺産を指定してくれた。今や「COOL JAPAN(カッコいいぞニッポン)」を合言葉に空前の「日本ブーム」だ。四国遍路でも笠を付け、杖を持ち、霊場を巡り歩く外国人も、こころ優しい伝統の「ご接待」に感激しきりの旅人も多いという。

 外国人も日本文化への異国趣味だけでなく彼らは彼らなりの感性で、異国・日本を見つめ理解しているものに違いない。では日本人はどうだろう。何人が「富士山の文化価値」を認識し、その魅力を外国人へ語り得るだろうか。

文化に高低はない。先祖が伝えてくれた心の鼓動こそが文化であり、その結晶は「国宝や世界遺産」(ハード)に指定されているが、そこに込められた「心」(ソフト)の継承も立派な愛国心といえよう。

今、叫ばれている国際化とは各民族がおたがいの違いを意識し合うことに他ならない。国際化した認識を持てば、それが他国を映す鏡となり、相手国を理解する第一歩となろう。大切なのは、誇りをもって己を知ること、誇りは自国への限りない愛着だ。国粋主義に陥ることなく、伝えるべきは伝え、学べきは学ぶ謙虚さと積極さこそ、国際社会で生きる基本姿勢といえよう。

 鎌倉学習センターでの講座も国際化の波が激しい昨今、日本文化の特異性が失われかねない状況に危惧を抱き、身近な「知ってるつもり」の事象を洗い流し、その「根っこ」を掘り下げる講座は今後も継承していく。毎回、同窓会理事長・原和彦氏に取材して頂き、その労に感謝しつつ筆を擱く。
                                     佐伯 仁(13期)

  • 2014.12.15

「第22回法政大学全国卒業生の集い・福井大会」に参加して

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  11月22日(土)「第22回法政大学全国卒業生の集い・福井大会」(主催 一般社団法人法政大学校友会 主管 法政大学福井県校友会)がおこなわれました(於ホテルヒジタ福井)。平成23年度に法政大学の研究チームが行った調査によれば、全国の都道府県の幸福度では、福井県が1位にランキングされたというエピソードも紹介され、法政とはゆかりのある福井県であるとの認識を新たにしました。
懇親会では、福井の音誌と呼ばれる“楽衆玄達”(がくしげんたつ)のウエルカムコンサートも荘厳な響きのなかで行われたり、また、東京から駆け付けた法政大学応援団の演舞もありで、会は大いに盛り上がりました。

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この時期の福井県といえば、なんといっても、越前がにを抜きに語れませんが、会場では甲羅盛りが提供されました。参加した校友は、「これぞ福井県!この会に来た甲斐があった。開催時期と言い、会の仕切りと言い、最高だった。」
との感想が聞かれました。
法政二高同窓会からは、大八木副会長、はら理事長をはじめ、有志数名が参加し、付属校の出身者の我々も広く法政を愛する一員であることをアピールした大会でした。
来年は愛知大会ですので、法政二高同窓生諸兄にも、積極的にご参加がありますと良いかと思います。  (文責 芝辻啓和 44期)

  • 2014.11.30

佐伯 仁(13期)氏の講演会
  第17回「暮らしに息づく民俗学」に参加して

 11月30日、日曜、晴天、午前10時。佐伯 仁(13期)氏の「暮らしに息づく民俗学」シリーズ第17回目の講演会が「鎌倉生涯学習センター」で始まった。
 「お酒はむるめの燗がいい~ 肴は炙った烏賊でいい~ 女は無口なひとがいい~ 灯りはぼんやり灯もりゃいい~」。 今回のお題は「灯りに日本人の心を探る」~なぜ灯りに魅かれるのか?~である。
 まず最初は「神聖な灯」。いつもながら、スライドを多用し「火」と「燈」の象形文字の解説。「灯(ともしび)」という文字は13世紀ごろから使われだしたそうである。先人は「火」を破壊・再生のエネルギーと見なし、邪を祓う浄めの霊力として信仰した。そんな先人の想いを他所に、我々はお盆に先祖の霊を迎える時に「火」を使う。高野山の「萬燈供養会」、京都の「大文字の送り火」、城南宮の「湯立て神事」は「火」で浄め、湯で再生を祈る。比叡山の「不滅の法灯」は1200年間も続く。つまり、先人は「灯り」は霊を導き、霊が憑りつくのだと考えた。
 次に、「供える灯」。先人は「供養の灯燈」を供養と浄めに、闇を照らす「灯り」は、仏の威光を示し、「竈の火」は家を守るエネルギーだと信じた。蓮の皿に備える燈明、元興寺の地蔵会「燈明供養」。絵蝋燭は「花と蝋燭」を一緒に供える。また、火をおこすことが家を興すことに通じるため、「火吹き男の顔」が「ひょっとこ」のお面となり、「おかめ」とペアで力を合わせれば招福・開運・繁栄をもたらしてくれるのだという縁起物に仕立てた。
 そして、「実用の灯」。室内の「灯り」には行燈。茶席の「短繁」に「竹繁」。「有明行燈」は鷲が灯火を増幅させている。屋外の「灯り」として商家の看板や提灯。河豚提灯に回り灯籠、取っ手を工夫し、蝋燭を固定した龕灯(がんどう)提灯は龕灯をいかなる方向に振り回してもロウソクは常に垂直に立って火が消えないように工夫がなされている。そして石油灯からガス灯へ。先人は「灯り」の使い方に合わせ工夫し、知恵を凝らし素材を選び、提灯には愛着豊かな郷土色を映した。因みに現在、巨大な「小田原提灯」が小田原駅の観光用シンボルとして飾られている。

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▲画像提供:中島 明道氏

 最後に「灯りの美学」。「万葉集」、「源氏物語」や「枕草子」にある“蛍”や“月灯り”の描写は、「灯り」の明暗が深い襞を作品に刻んでいるし、与謝蕪村の国宝「夜色楼台図」は雪、遠い山、灯りが、日本人の原風景の温もりを伝え、何とも言えない郷愁を誘う。また、谷崎潤一郎は「光と影の美学」と讃え、「陰翳礼讃」にこそ日本人の「灯りの美学」があるという。我が国は高温・多雨の風土のため、太陽光線は四季を通じて大気中の水蒸気に遮られ、光は「ぼんやり」している。だから日本人の性格が「曖昧」と評せられるのは、実は気候風土の影響を受けている。「滲んだ灯り」が日本人の灯り。その灯りと影の交りあい心許せる安心感を得てきたのが、我々日本人と言えよう。と閉めの言葉で講演を終えた。
 冬至まで二十日余り。年の瀬に今や各地で燦々と光を放つイルミネーション、それもまた良き哉。次回は1月24日の土曜日。「鬼が来る」と題し、同会場、同時刻で第18回目の講演会を行う。聴講に「おいでっ、おいでっ」と、笑う鬼が手招きする様が目に浮かぶ。   (文責:原和彦35期)


  • 2014.11.21

ホームカミングデーに参加して
 11月8日(土)、母校にて法政二高の昭和52年度(35期)~56年度(39期)及び法政工業高校(第一工業、第二工業時代を含む)の卒業生を対象とした、「第7回ホームカミングデー」が行われた。
 当日は、あいにくの悪天候であったものの、多くの卒業生のお集まりであった。
 第一部の式典に続き、第二部懇親会では、当時の写真を見ながら、旧友、恩師と会談するなど、なごやかな雰囲気で進行した。

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 元教諭の江本先生、岡部先生、渡辺先生、各期代表の方から当時の思い出話、エピソードも語られた。
 最後に法政大学応援団のリードによって、母校の校歌を斉唱し、会は幕を閉じた。
 参加した卒業生は口々に
 「母校は良いもんだ。今後も母校を盛り上げていきたいね。」
と言いながら、会場をあとにした。
                      (法政二高同窓会副理事長 芝辻 啓和)

  • 2014.10.17

    2014年 二高祭
        開催日  11月1日(土)・2日(日)
        今年も同窓会では、大人気のどう楽焼はじめ、たくさんグッズを
        ご用意して、みなさまのご来場をお待ちしております。
        新作も登場しますよ! おたのしみに!!

日本人「座り」のいろいろ  

2014.06.29

民俗学研究家・佐伯仁さん(13期)の講演会寸描

北斎漫画.jpg▲画像提供:中島 明道氏。クリックすると拡大します。 6月29日(土)「鎌倉生涯学習センタ-」午前10時。日本映画の最高峰、小津安二郎監督の珠玉の名作「東京物語」のラストシ-ン。主人公とその息子の嫁がしゃがんで遠くを見つめている。そんな場面のスライドから、「日本の座る心」~なぜ日本人は座る文化を生んだのか?~と題した佐伯仁(13期)氏、第16回目の講演は始まった。

 まず、“座”の字源。“广(まだれ)”は屋根を意味し、“坐”は、おじぎ、挨拶から目配り、気配りを派生させたという根源的な話を枕に、「座の神聖視」では、神が鎮座する“磐座”や神の像(女神も含め)。 さらに瞑想する“結跏趺坐像”や“半跏趺坐像”をスライド紹介し、“結跏”と“半跏”の意味の違い等を説明。興味深いのは “大和座り”という座り方。これは三千院の阿弥陀如来の両脇の菩薩二躯が、少し前かがみで座っている正座を言うのだそうだ。何時もながら、実に格調高く、掘り下げた、奥行ある内容だ。

 次の「座にくつろぐ」では、縄文人の“合掌土偶”や炉を囲み団らんする、蝋人形の弥生人家族がスライドで写る。平安時代には王朝人の坐る習慣から貴族の邸宅、寝殿造りは生まれたという。また、“あぐら”は“胡(西域)人”のくつろいだ坐り方で“胡坐”。戦場では“胡坐”中心の武士が江戸期以後、参勤交代などの影響か“正座”が正式な座り方となり、茶道、日本舞踊へと。以来、芸道、武道では必須となるが、一般庶民では今でも神祭→直会→宴会で車座になり乱酔乱舞で、くつろぐのが大好きだ。

 そして、「座して“謙虚”を学ぶ」。農耕民族は大地に根を張って生活する。田植え、雑草取り、穀霊(稲の神)に感謝を捧げて生きてきた。その精神が武道の基本となる深々とした挨拶を生み、相撲の蹲踞の姿勢や“一期一会の座”という儀礼の席を生み出した。極めつけは小笠原流の座礼、“九品礼”だろう。また、庶民でも日常の囲炉裏端に座る場所に家族の序列の証となる定座を設けた。それらは、大地を踏み、穀類の恵みを天に託す、日々の営みから生み出された精神、一歩控えめに他者を敬う心の表れとも言えよう。

 最後に「座の視線の先に“美”」。座った位置からの目線で全てを配置する気配り。龍安寺の石庭、床の間の掛け軸や盆栽、雪見障子の拵え。圧巻は京都“迎賓館”のスライド。伝統的な日本建築の匠と座る文化の極み。畳の暮らしが生み出した日本人の“おもてなし”精神溢れるその空間は、国賓をお迎えする国家の威信と矜持、そのものを具現化している。さらに接待の宴で饗されるお椀、小鉢やお皿等の食器や箸、そこに盛り付けられた料理(例えば頭付きの頭は左側)の向きに至るまで、座った人に食事を堪能させる以外の配慮がある。

 佐伯氏は、現代人が「目に見えないものを」合理主義で切り捨ててきた事に対し、先人達が育んで来た知恵を掘り起こし、神・人・自然(動物・植物・鉱物)とのコミュニケ-ションをもう一度見直すために、「暮らしに息づく民俗学」と銘打って講演会を行って来た。
 90分間の締めくくりに「座の文化論」(講談社学術文庫 著:山折哲雄)を紹介し、お開きとなった。まだまだ、先人の知恵には、ネタ切れは無さそうだ。次回は11月。同会場、同時刻で開催予定。

(文責:原 和彦)

日本の「包み」に見る世界  

2014.04.12

民俗学研究家・佐伯仁さん(13期)が講演会

 民俗学研究家である佐伯 仁(13期)氏による「第15回 暮らしに息づく民俗学」の講演会が4月12日(土)午前10時から鎌倉生涯学習センタ-に於いて行われた。
 今回のお題は「日本の包む心~その美、工夫の心を探る~」。例によって、スライドを約70カット用意しての大変分かり易い演出。洒脱なトーク。そして今回は地元、鎌倉テレビが好評の噂を聞きつけたのか、録画取材に来ていた。

包む心.jpg▲画像提供:中島 明道氏。クリックすると拡大します。 まず、「包む」の字源は胎児を身ごもる姿の象形文字。古今東西それは機能(用)と造形(美)の結晶であるが、わが国ではさらに“礼”の心が反映されていると言う。
 そもそも“包む”にはモノを“保護する・隠す・覆う・仕切る・遮る”という意味がある。モノを包むのに、先人たちは藁・笹・竹・木・木の葉など天然素材を巧みに利用した。紙の誕生、普及は麻紐から贈り主の真心を象徴した水引・熨斗へ進化して、現在も引き継がれている。それは折形の美、礼の美であり、日本人の気質である折り目正さの原点だと言う。

 さて、世の習いとして常に習俗は公家から武家へ、そして庶民へと上から下へ下りて来るものである。公家から武家への流れの中で、室町期の上級武士の秘伝の礼法として伊勢貞丈の「包結記」は名高い。そして江戸時代には一般庶民へ普及し、モノや材料の梱包から料理に至るまで様々に天然素材を駆使した職人技が冴える。
 例えば、茶道具に仕覆を着せる“袋師”。有田焼の大花瓶を運ぶための荷造りをする“荷師”。竹を使い“彩の香・やげんぼり・ご香煎・梅の香”。更に“椿餅・桜餅・柏餅”には殺菌力も兼ね添えて木の葉の精気を移した。“浜焼桜鯛”や長良川名物の羊羹、壊れやすい卵を優しく包む“つと卯”の包装、奉書焼に朴葉巻き・茶巾寿司・笹団子。極めつけは“米俵”だろう。貯蔵・運搬・検査・積み上げ・破棄後に焼いて灰にして土に撒く。なんと無駄の無い、究極のエコ術ではないか。天然素材の理に適い、保存・運搬に便利な工夫を施した生活の知恵は、数々の巧みな手仕事の冴えある技に支えられていた。

 ところで、紙と並んで包む素材と云えば布。そう“風呂敷”である。それは最早、万能クロス、マジッククロス“FUROSHIKI” として国際用語になっている。因みに正倉院収蔵の舞楽装束の“包み布”が風呂敷の始まりで、光明皇后の立顔風呂で敷いた織物が風呂敷の語源だそうだ。また、嫁ぐ娘への親の愛が込められた“嫁入り風呂敷”等、たかが風呂敷、されど風呂敷なのである。使い方自在、旅にも重宝、進物品の献上にと、袱紗と共に使われる。
 そういえば“袱紗”の応用だろうか、駅弁の包装紙には世相を移す数々の物語が映されている(ご当地弁当・サンドウヰッチ弁当・記念弁当等)。また、“包み心”は神符を包む“お守り袋”、家を包むには“暖簾”。室礼には“屏風”や“襖” 。更に足元へは “下駄・草履、足袋”へ及ぶと言う。

 最後に佐伯氏は「“包む心”は口ほどにモノを云い、“包む思考”はすべてを包み込む日本独特の母系文化の源である。」と“まとめ”の言葉で、約90分間の講演を包み終えた。先人より受け継いだ、暮らしに息づく日本人の“心・技・知恵”を紹介した本当に有難いお話である。小生は最早、講話だと思っている。

 次回は6月29日(日)に「日本の“座る”~その心を精神の集中・謙虚さに探る」と題し、同会場、同時刻で行われる。

(文責:原 和彦)

〈箱根駅伝2014〉法政二高OB、疾走するも「50秒差」に涙  

2014.01.25

法政付属高校同窓会は応援活動を展開

 2014年1月2日(木)・3日(金)に第90回箱根駅伝が開催され、我らが法政大学陸上競技部が堂々出場を果たした。昨年は、3年ぶりの箱根駅伝予選会を通過、出場を果たしたのみならず、総合9位の成績を残して数年来望みに望んだシード権(予選免除権)を奪還した。こうした戦績は、今年の箱根駅伝への期待感として多くの法政関係者の共有するところであった。

 こうした期待感の中で、昨年12月10日(火)に駅伝エントリーメンバーが発表された。この法政が誇る精鋭たちの名の中には、我らが法政二高OBである高梨寛隆選手、松田憲彦選手の名も加えられ、法政二高OBの期待感は更に高まった。彼らは昨年の駅伝9区・10区の襷をつなぎ、見事法大のシード権奪還に貢献している。「あの感動が再び―」という期待感が多くの法政二高OBたちの胸に去来したことは言うまでもないだろう。
 順調に滑り出しを迎えたかに見えた法大駅伝メンバーであったが、ここで予期せぬアクシデントが襲うことになった。3年生のエースである西池和人選手が右足股関節に力が入らなくなる症状を理由に回避を決定、更に駅伝のルーキー・足羽純実選手が右足疲労骨折により離脱したのである。
 逆境、そして逆境。しかし、法大駅伝メンバーは来るべき箱根路に残るメンバーが一致団結して挑んでいくのである。

 斯くして迎えた1月2日(木)の往路を迎えることになった。箱根路には法政の幟が立ち並び、路地やテレビの前などオール法政が一丸となって我らが法政の誇る「駿馬」たちに熱い声援を送ったのである。
 今回の箱根路に挑んだ「駿馬」たちは、次の通り。

1区
田井慎一郎(経済4年・八千代松陰高校〈千葉〉)
2区
佐野 拓馬(経済3年・須磨学園高校〈兵庫〉)
3区
黒山 和嵩(現代福祉3年・京都外大西高校〈京都〉)
4区
中村 涼(経済2年・京都外大西高校〈京都〉)
5区
関口 頌悟(社会3年・高崎高校〈群馬〉)
6区
田子 祐輝(経済4年・いわき総合高校〈福島〉)
7区
森永 貴幸(現代福祉3年・西京高校〈山口〉)
8区
佐藤 和仁(スポーツ健康2年・田村高校〈福島〉)
9区
松田 憲彦(社会4年・法政二高校〈神奈川〉)
10区
高梨 寛隆(社会4年・法政二高校〈神奈川〉)

 往路においては、1区から熾烈な争いが繰り広げられ、往路11位という成果を残した。 こうなると俄然注目が集まったのは、復路である。1月3日(金)、当日エントリー変更で我らが法政二高OB・松田憲彦選手の起用が発表され、法政二高OBからは「昨年の『二高リレー』が再び実現した!」と、感嘆の声と期待が吹き出した。

DSC00820.JPG▲ 9区・松田憲彦選手。その快走ぶりに注目が集まった(クリックすると拡大します)。 多くのオール法政の声援を背景に、いよいよ決戦が始まった。開戦当初、10位でつながれた襷は、8区・佐藤和仁選手の粘り強い走りもあって、9位で戸塚中継所へ至った。そこで襷を待つのは松田憲彦選手である。いよいよ「二高リレー」の開始である。昨年の箱根駅伝では満足できる走りができずにリベンジに燃えていただけあり、松田選手の走りはその執念を感じさせるものであった。後方集団を大きく引き離し、9位で高梨選手の待つ鶴見中継所に飛び込んだ。
 襷を受けた高梨選手は、法政二高陸上競技部からの同志からの襷を受けて出走する。仲間たちが守り抜いた襷を抱き、彼はただひたすらに走り続けた。6.0km時点で区間8位の好走は、まさに高梨選手の使命感が実現したものであろう。しかし、こうした好走が逆に高梨選手のリズムを崩してしまったのか、次第にペースを落としてしまった。16.6km時点では大東文化大学に逆転を許す結果となり、最終的に11位でのフィニッシュであった。その差は僅か「50秒」、悔しい涙に終えた箱根路となった。

 フィニッシュ後、高梨選手は「4年生として、後輩に予選会からの戦いということで厳しい状況にさせてしまったので、本当に申し訳なく思っています。」(スポーツ法政ホームページより)と、松田選手からも「目標が8位以内だったので、悔しい気持ちでいっぱいです。」(同上)と悔しさをにじませた。4年生、最後の箱根。悔しさの一方で「二高リレー」が実現できたことについて、2人は「7年間ずっと一緒にやってきた。かけがえのない時間だった。」(カナロコホームページより)と声を揃えたのだった。

 今回の箱根は、再びシード権喪失という結果に、多くの〝法政人〟が落胆したことは想像に難くない。しかし、私たちは今回もまた戦果以上の感動を彼ら選手一人ひとりから見せられることになった。強豪が揃う中で見せた彼らの「法政魂」は、我々を奮い立たせ、一丸となって応援させ、そして今なおその鼓動は収まらない。
 特に、2年連続で実現した「二高リレー」は、二高OBにとっては最も記憶に深く刻まれた名シーンとなった。鶴見中継所で飛び込む松田選手からの襷を笑顔で受け取った高橋選手のその姿は、まさに〝二高魂〟の発露である。 我々は、彼らのこの姿から感じたものを次へと繋がなくてはならない。
 法大陸上競技部の更なる飛躍を祈りつつ、多くの感動を与えてくれた駅伝出場メンバーに強く感謝の意を表したい。

法政付属高校同窓会は応援に邁進

 激走が繰り広げられた今回の箱根駅伝では、法政付属高校同窓会の呼びかけで恒例の応援活動を展開した。今年は、復路9区の松田憲彦選手を応援しようと、京浜急行戸部駅前に参集した。榎本克己法政二中高学校長(26期)も応援に駆けつけ、「大応援団」を結成、松田選手の疾走に大声援を送った。
 法政二高同窓会は、「法政大学」と大書きされた幟を立ち並べ、更に同窓会特製の「法政旗」を手に応援活動を展開、他大学の応援団を圧倒した。

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(文責:田上 慎一、写真:加藤 高男)

「結び」の世界を堪能  

2013.11.30

民俗学研究家・佐伯仁さん(13期)の講演会寸描

見返り美人.jpg▲画像提供:中島 明道氏。クリックすると拡大します。 11月30日(土)午前10時。晴天の鎌倉。駅前の生涯学習センタ-で暮らしに息づく民俗学シリ-ズ(第14回「日本の結び」~その美・用・神秘の心を探る~)は始まった。今回も会場は満員だった。民俗学研究家 佐伯仁(13期)氏の講演会には良い年のとられ方をされたなと思える紳士淑女が多い。映し出されるスライドを凝視している。

 まずは古代の埴輪や壁画に描かれた貴人に見られる「垂らし結び」、奈良期には「前結び」、石帯(せきたい)で神の加護を願ったという話から始まった。時代と共に組紐結びから前帯へ変化する。それは、幼児から子どもへの通過儀礼として多く行われる七五三の祝いとも密接な関係がある「紐解き帯直し」。帯を結ぶことで新しい成長段階に達したことを表す儀式という。時代と共に結び方は多様化し、作業結びから花結び等50種類はあるという。また、お茶壺道中の「封じ結び」は献上品が開封されていないことを示すものであったし、匂い袋の紐は厄払いの意味を付加した。更に礼の表現である「飾り結び」の儀礼化も進んだ。小笠原流の水引にもいろいろな種類がある。「祝儀結び」では鶴亀を模して吉祥を結び、新年の「祝い結び」は誠に豪華絢爛。安産祈願の岩田帯は「ゆはだおび(結肌帯)」が訛ったもの。昔の日本人は「結び」に霊力や命の鼓動を込め見出し、神の加護を祈ったという。
 また、「結び」は計算や記録にも用いられた(沖縄の藁算、インカの結縄文字)。因みに船の速さを表すノットは結び目のノッチに由来するという。ヨットやハンモックの実用の技や職人技の結び、庶民も風呂敷で、様々な結び方を編み出して来た。これらは知的で美的な匠の技である。

 ところで余談だが、記紀では「万物は産(ムス)霊(ヒ)神の二神(高御産巣日神(タカミムスヒ)と神産巣日神(カミムスヒ)が創造した」としている。“産(ムス)”は「新しくなり出でる」事を意味し、“霊(ヒ)”は「ものの霊威」を表すらしい。今でも子供の誕生に男の子はムス・コと呼び、女の子ならムス・メと呼ぶ。人が死ぬと男性は“彦の命”(ヒコのミコト)と言い女性は“姫の命“(ヒメのミコト)と言う。また、“オムスビ”は実を結ぶようにと「気」を結び込めるので“おむすび”と言い、“オニギリ”は三角に結ぶことで凶事の禍を祓う意味で“おにぎり”なのだそうである。

 さて、先人は「結び目」には神が宿ると信じていた。神社の注連縄は神域である印だし、門松には「男結び」で年神様を迎える目印にした。因みに相撲の横綱の注連縄は雲龍型の鶴と不知火型の亀とを対にし、吉祥を象徴しているそうだ。また、正月に祈る注連縄や輪飾り、しめ飾り等は多種多彩だが、必ず稲藁で作るのは五穀豊穣祈願の証という。また、神への奉仕の印として田植えに早乙女は「襷」を掛けたし、「鉢巻」も神へ仕える正装であり、神の加護の印。それは霊力を持つとされた古代の「領(ひれ=きれ)」信仰が「紐」に継承されたらしい。更に、武将は兜の緒で神霊を結び、千人針は「魂(たま)結び」。千人の魂の力で弾を避けるようにとの願掛けであった。

 今回のまとめとして佐伯氏は「人は産声で誕生し、人生の節目であらたな結び目をつくり、生涯、多くの絆を結びつつ歩む。人生は結びの連続である…」と。やっぱり上手い佐伯節!結びの言葉に、場内品よく拍手喝采。あっという間の濃密な一時間半を堪能した。
 次回は“包む”だそうである。またまた、乞うご期待、お聴き逃しなく!!

(文責:原 和彦)

「日本の色」は全部でいくつ?  

2013.05.19

民俗学研究家・佐伯仁さん(13期)が誘う「日本の色」

源氏物語.jpg▲画像提供:中島 明道氏。クリックすると拡大します。去る5月19日(日)午前10時から鎌倉生涯学習センタ-において「日本の色いろいろ -日本人が愛した色-その心を探る」と題して、民俗学研究家・佐伯仁氏(13期)による第13回目の講演会か行なわれた。流石にリピ-タ-も多く今回は62名の超満員。例によってプロジェクタ-による画像の数々が卓越した話を更に引き立たてていた。

 講演会は時代別の経糸と今回のテーマ「日本の色」を横糸に展開され、冒頭、佐伯氏は「今日は日本の色についてのお話なので、私も藍染の上着を着てきました!」と洒落たご挨拶でのっけから佐伯ワ-ルド全開である。
 古代の色、赤は魔除け、白は清浄を意味した。古墳の中は色彩豊かだったこと。東(青竜)西(白虎)南(朱雀)北(玄武)にも色があった。神の色は白、仏の色は黄金、冠位十二階の最高位の色は紫。古事記では白黒青赤など色数は少ないが万葉集では多彩、王朝人は色彩の感性がとても豊かで226色を持っていたそうだ。中世は侍の色、威厳の色である黒、しかし鎧兜は華美な装飾を施した。江戸の色は町人の色。幕府による奢侈禁止令で茶・黒など目立たない色が普及、庶民の反骨精神が生んだ色による侘び寂びの極みは四十八茶百鼠だろう。また、歌舞伎カラーは柿・黒・萌黄。外国から絶賛され、ジャパンブルーと言われた伊万里焼の藍色。異国への好奇心が生んだ縞柄。鴇色・浅葱色・橡色など今の人はどんな色か想像できますか?信仰の空間はいつの時代も極彩色だった。ここご当地、鎌倉の色は…武家の街だから薄化粧かな?と佐伯氏。最後に寺子屋で「いろは」を覚えて「は」の字を忘れ、後に残るは「色」ばかりだなんて…とまるで落語の様なオチも付いた、教養娯楽満載の実に幅も奥もある講演会に来場者一同ご満悦の拍手喝采で幕となった。

 佐伯氏が民俗学に拘る理由は、目に見えないものを合理主義の名のもとに切り捨ててきた時代風潮の中で神・人・自然(動物・植物・鉱物)とのコミュニケ-ションを大切にしてきた先祖が育んだ知恵をもう一度見直したいからだと言う。次回は「結び」=産霊(むす)の視点で11月下旬頃を予定。乞うご期待!!

(文責:原 和彦)