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2005年08月03日 開設    
2021年07月30日 更新

霜月

日本こころ歳時記

違いを知る若き国際人へ贈る日本文化ガイド~七五三を祝う~

 銀杏が色づき枯葉が舞い散る…空気まで黄金色にそまる十一月…初冬の澄み切った空の下、「七五三」の宮参りへ向かう親子の晴姿が見られる季節になりました。

 秋から冬へ季節が替わる時期に行われるのが「七五三」のお祝いです。数え年で三歳と五歳の男の子、三歳と七歳の女の子を祝い健康と成長を願う伝統の行事です。もともとは徳川三代将軍・家光の四男徳松(後の五代将軍綱吉)の身体が虚弱のため、五歳の祝いを慶安三(一六五〇)年の十一月十五日に行ったのが始まりのようです。

 なぜ十一月十五日なのでしょう。理由は昔の暦によれば丁度、この日が「鬼宿日(きしゅくにち)」にあたり、婚礼以外は万事に「大吉」、いわば大安吉日の元祖といえる、誠にめでたい祝い日だったからです。こうした吉日にさらに将軍の権威が重なり、この日が決められたのでしょう。従って「七五三」は子供が災禍に負けぬ抵抗力をつける節目(ふしめ) の歳祝いです。そのため、めでたいから祝うのではなく、祝うことでめでたくするという信仰に由来しています。11.png

 七歳、五歳、三歳の奇数に整えられたのは中国の名数(めいすう)信仰によります。これは陰陽五行説(万物は陰と陽で生じるという哲学)に発します。数字も陰(偶数)陽(奇数)に分け、陽数(奇数)は縁起のいい数字とみなし、なかでも七歳は子供の成長過程でもっとも大きな関門でした。

 かつて「七つ前は神のうち」といわれたように、七歳までは罪も咎められず、社会の一員とも認められませんでした。そこで氏子(うじこ) 入りと称し氏神(うじがみ)へ参って、初めて神からも社会からも承認され、祝福される七歳の式が必要だったのです。七歳になると共同体の一員として認められ、受け入れられるという村づきあいの掟が昔、日本の各地の村落にあったのです。

 この取り決めにより共同体一人一人の権利と義務が生じてきますが、村を支える新しい構成員として村の大人たちからも守護を得、氏神の加護を祈ったのが「七五三」の本来の姿だったのです。

 江戸中期には長寿を願う「千歳飴」も売りだされ、衣装も華美を競うようになり、川柳も、「帯と袴で呉服屋へ十二両」と「七五三」の七と五を足して詠んでいます。また祝福と愛情をユーモアをこめた川柳もあります。「礼服で乳を飲んでる十五日」「神前へ車で参る七五三」は父親が幼な子を肩車にのせ、お参りする姿は庶民の温かい親ごころを伝えています。


─酉(とり)の市─

 十一月の酉の日に各地の鷲(おおとり)神社で行われる祭礼で、東京下谷の鷲(おおとり)神社が江戸期から有名です。十一月の最初の酉の日を「一の酉」と言い、順次、「二の酉」「三の酉」と呼びます。年によって「三の酉」まである年は火事が多いと俗に言われています。

 本来は武運を祈る神として武士に信仰されていましたが、後に客商売の者が縁起をかついで多く参拝しました。その結果、現在では、開運・商売繁盛の神として信仰され、祭りの期間、参道には「福」を掻きこむ熊手・おかめの面・宝船・大判・小判などの縁起物が売られ、多数の参詣人で賑わいます。

 不景気になると人はだれでも「神頼み」に縋るようになるのは今も昔も変わらなかった点は興味深いといえましょう。

 国際人とは自国の文化という鏡で異文化を映し“違い”を理解する事が第一条件だ。
 各民族が互いに違いを認め合ってこそ国際化といえよう。誇りをもって自己への認識を深め、相手国を理解するためにも、若人よ!確かな鏡をもとう!

S. Y. J